朦朧とした意識の中で、雨音を聴いた。それは、霧に覆われた視界を風がゆっくりと晴らしていくように、もったりとした脳を覚醒していく。
その雨音が、止んだ。雨じゃなかったのだ。戸建てのボロアパートは、建物の真ん中を玄関から階段が上に延びている。あちこち歪んだ階段を誰かが上がってくるたびに、雨とそっくりの音がサラウンドで響くのだ。ダビングは朝までかかった。今日は休んでいいぞと言われたので、起きたら洗濯をしようと決めている。ほっとして、また枕にしがみついた。
突然ドアがノックされた。共同トイレは、各自ペーパー持参。隣の女の子が、またペーパーの買い置きを忘れたのだ。知るか、ンなこと。もう金輪際、余計なお世話はやめると誓ったのだ。枕を頭の上に乗せ、ベッドに顔を押し付けた。だがノックは執拗だった。
観念し、使いかけのロールペーパーを掴むと、鍵をがちゃがちゃ回した。鍵は右か左か、どちらに回すかして開ける。日によって延々と開かない時もある。イッパツで、開く。これで、本日の運は使い果たした。
「はい!」
ペーパーの端をひらひらと舞わせて廊下に差し出すと、わりと朝は血圧が低いオレの血が完璧に止まった。いきなりペーパーを突きつけられたほうも、体のどこかの部位なり機能なりが止まったはずだった。十二コマほど見つめ合った後、彼女がシュオンの声で言った。
「てめぇー、なんのマネだよ?」
美島こずえのきらきらとした笑顔が、明日崩れるかも知れない薄暗い廊下でファンタジーみたいに光っていた。
*
その鉄橋は、わりとオレのお気に入りの場所だった。
目の下には操車場が広がり、週末ともなるとカメラを構えた鉄男鉄子で埋まってしまうが、オレのようにひょっこり平日来られるヤツには最高の穴場だった。もうすぐ梅雨入りだというのに、この橋の上にはいつも風が通っている。
美島こずえには、さっき部屋の前でこの場所を教え、先に行ってもらっていた。オレが急いで歯を磨き顔を洗って駆けつけた時には、もうすっかりこの場に馴染んでいた。手摺に背中をもたせ、目を閉じ、長い髪を風に梳かせている。オレが近づいていっても、目は閉じたままだった。「いいとこね」とひとり言のように言って、体を解すように伸ばした。彼女は「てめぇー、なんのマネだよ?」と言った後、笑みを見せた以外何も言わなかった。ごめんなさいも。余計なことしてくれたわねも。この場所を説明した時も、笑って頷いただけだった。だからオレは、彼女が何を考えているのか分からなかった。そして何をしに来たのかも。
オレは彼女の隣で手摺に捕まり、操車場を見下ろした。意味はなかった。頭の中が、どうでもいい疑問で埋まっていた。だから、何かしないではいられなかったのだ。
どうして、オレのアパートを知ったんだろう。会社で訊いたんだろうが、電話に出る進行仲間が知っているはずもない。会社で寝泊まりすることの多いオレらが、お互い、どんなところに住んでいるか話題にすることはないのだ。目を下に向けたまま、ほんのすこし彼女を盗み見た。背中を手摺に預け、相変わらず目を閉じたままの顔を空に向けていた。やはり睫毛が長かったのは、本当なのだ。別に、彼女がウソをついたわけじゃないけれど。
「ほら、劇団の男の子に電話してもらったんですよ」
突然、彼女がしゃべった。体を起こし、オレの目を覗き込む。悪戯っぽい、笑み。それにすこし、サドが入っている。
「そういう細かいこと、気になるでしょう? 柏原さん」
「え?」
「だから白状してあげます。劇団の子に、柏原さんの中学時代のお友達、っていう芝居をしてもらったの。ああ、もしもし。さっき東京に出て来たんですけどぉ。あいつのアパートの住所、どっかやっちゃって」
美島こずえが必要以上に訛りを強調する。
「そんな訛ってないっすから」
笑う。その笑顔に、オレも引きずられる。美島こずえが、続ける。
「あいつってば、昨日からぜんぜん電話通じなくて」
「電池、切れてたんです」
ドーパミン。オレが嬉しがってる。
「もう、夜中に何度も何度も電話したっけが。あいつったら、ぜんぜん電話出てくれなくて」
何両も繋がった疲れた電車が、操車場に戻って来る。ぽわんと、まったく迫力ないふやけた警笛が、オレのドーパミンをくすぐるように撫でていく。
「おらぁもう、不安になっちゃったですよぉ。あいつに、すっかり嫌われちゃったのかなぁ。ひどいこと言っちゃったし」
電車のごろごろと鉄路を転がる音が、なんだかずっと前から親しんでいたオルゴールのように伝わってくる。ウソばっかし。そんなこと、会社の連中に言うわけないじゃないか。言うわけないことを、美島こずえは続ける。
「あ、でも彼女といちゃいちゃしてたら、俺、邪魔しないで帰りますから。ですから住所、教えてくれませんか?」
美島こずえは笑みを作ろうとして、なんだか半べそをかいたような顔になり、それはそのまま空気感染してオレに張り付いた。今度は、オレが何か言い返してやる番の気がした。
「女の子がいたら、どうするつもりだったんすか?」
「あ、お取り込み中のとこすんませんけど。新聞、三ヶ月だけお願いできませんかねぇ?」
指を舐め、伝票をめくるマネをする。
「オレ、芝居、ムリっすっから」
「やだ、頑張らないと。女の子の嫉妬、怖いじゃないですか」
オレの送った最新のシナリオを読んだのだ。長い睫毛の奥で、またサドっぽい光が浮かんでいる。
「読む時間、あったんすか?」
「だったらメールよこせよって」
「あ、いや・・」
「ごめんなさい。これでも男と対決してたんです」
美島こずえは、きっぱりと言った。
「訊きましたよ。作、演出の彼と・・・」
「違うんです」
「え?」
「男としての彼と、決着を付けなくちゃならなかったんです。以前、つき合ってたんですよ、あの人と」
鋭く警笛が鳴り、電車が止まった。車庫入れ、完了。
「とっくに終わりにしたつもりだったのに、彼、わたしに当てた芝居の台本を書いてきて。それって、ぐちゃぐちゃになるじゃないですか」
何がぐちゃぐちゃなのか、分からなかった。そして何を言い出したのかも。オレのほうが、よほどぐちゃぐちゃだった。
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