オレにはどうしてもベタベタに聴こえてしまう歌が、駅前の人たちの足を止めていた。
恋はミラクル、・・愛は人を変える。それを延々とリフレインする。そのうち人びとがその歌詞を口ずさみだすと、歌い手は弦を弾く指に力を込め、首に下げたブルースハープを吹き鳴らす。みんな、歌いながらスマホを
オレがその人だかりに出会うのは、週のうち何回もない。それは銭湯に行ける時間に帰れた日に限ったことで、風呂屋、コンビニ、アパートのルートにたまたま駅前があるからだ。そしてきまって、このルートを通らないで済むコンビニを選ぶべきだったと悔やむことになる。ベタな気持ちを言えば、突然哀しくなるのだ。たいして激しくかき鳴らしてもいないのに、オレの感情の弦は、いつも簡単に、しかも唐突に切れてしまう。好きだ好きだが募って、愛は人を変える。そんなふうに、人はなれるものなんだろうか。
大合唱からコンビニに逃げ込むと、メールが鳴った。美島こずえからだった。キャラデザインの件、了解です。いつもすいません。明日、ぜひお願いしますね。
明日は、オレが担当した話数のアフレコの日だった。彼女とはアフレコで顔を合わせるようになって、シナリオが決定稿になり次第送ってもらえないかと頼まれた。シナリオの打ち合わせは、アフレコの十ヶ月以上先行している。ヒロインを演じる彼女としては、できるだけ早く今後の展開を知っておきたいというのも無理はない。オレはプロデューサーの許可を取って、推敲を終えたシナリオを彼女に送ることにしていた。キャラデザインの件っていうのは、そのシナリオのゲストキャラのストーリーボードが何点かあって、さっきそれをシナリオと一緒に送ろうとしたら重くて送れなかった。それで、明日ついでに渡しますよと書いたのだ。
夜食を買い、湯上がりの牛乳をすすりつつ、雑誌の棚を眺めた。彼女と行くどこそこ、特別のディナーはどこそこで。ミラクルな恋を掴むスポットが、これでもかっていう具合に踊っていた。そういえば、美島こずえから何度も食事に誘われている。声優オーディションの前に、シュオンの役柄のことで会って話した。あの晩のことをとても感謝しているというのだ。ぜひ、お礼させてくださいよ。そんなとんでもないですよと断り続けていたら、シナリオを送ってあげるようになって、その誘いは挨拶代わりのように頻繁になった。
忙しいを口実にした。だがウソだった。彼女との距離がこれ以上縮まることが怖かったのだ。恋はミラクル、愛は人を変えるなんていうレベルじゃなく、きっとオレは、また感情の流れがぶつっと止まる感覚を思い出したくないのだ。
手に取った雑誌をペラペラやっていたら、お勧めブルーレイに『ルビー・スパークス』が載っていた。オレの好きなラブコメでは、十位以内に入る。
スランプに陥った小説家が起死回生を賭け、自分が理想とする女の子、ルビーをヒロインにして小説を書きはじめる。ルビーは、彼が思い入れを深めていくほど魅力的に描かれていくが、ある日突然、現実の彼の前に現れてしまう。彼女は、まさに理想通りの愛らしい女の子だった。それに彼は、彼女が自分に夢中になるように気持ちを書き込んでいけばいい。こうして彼はルビーと小説家との恋物語を書き進めながら、そのヒロインであるルビーとの生活も楽しむことになる。だが現実の世界を知ったルビーは、次第に彼の夢想したヒロイン像から離れ、自立した女の子として生き始める。そして、当惑しルビーを自分のフィクションの中に留まらせようとする彼に対し、彼女はこう問いかけるのだ。
「あなたは、目の前にいるわたしを愛してくれていないの?」
繰り返し見たほど好きな映画だが、でも見る度に、この罪のないラブストーリーはオレをチクチク刺した。これまで、何度か女の子とつき合った。だがオレはこの小説家のように、頭の中で勝手に恋愛をしていただけで、相手の女の子の現実には向き合おうとしてこなかったんじゃないのか。
ふと思いつき、スマホでこっそり『ルビー・スパークス』の紹介記事を写し、美島こずえへの返信に貼り付けた。いつだったかお勧めの映画があったら教えてくださいね、と言われていたのだ。
メールが飛んでいく音を聴いて、けど、なんだって『ルビー・スパークス』を送ったんよ、と自分に突っ込みをいれた。