人はミームを残す
同じくドーキンスさんが提唱した概念にミーム(meme)というものがある。これは遺伝子(gene)から連想して作られたもので、「文化についての遺伝子」と言えるような情報のことだ。
どういうものかというと、例えば誰かが喋った言葉や口ずさんだメロディや思いついたアイデアを、誰かが聞いて影響を受けたり真似をしたりして、言葉やメロディやアイデアなどの概念が人から人へと伝わっていく。このとき伝わっていくものがミームだ。この場合、他人に対して影響力の大きいミームほど繁殖力が強く、どんどん人から人へと広がっていく。そんな風に文化的な概念が人間の間で広がりながら、複製・拡散・突然変異していく様子を、遺伝子が複製・拡散・突然変異するのと同じように考えることができる、というのがミームというアイデアだ。
人間が喋ったもの、書いたもの、働いて作り出した成果物、全ての表現活動や生産活動、そうした他人に影響を与えるものは全てミームだ。この世界の人間たちの間では常に無数のミームがやりとりされ、複製されて拡散し、混ざり合って突然変異を起こし、その中から淘汰されたものが残っていき、さまざまな文化や風習や芸術を作り上げている。
要は、人間の場合は何かを伝えたいとか残したいと思ったら子どもを作って遺伝子を残すだけではなくミームを伝えるという方向性もあるということだ。それは遺伝子を拡散するのと負けず劣らず面白いことだと思うし、遺伝子を残すしかやることがない他の生き物よりもその生でできることの幅が広いということでもある。だから遺伝子を残すことだけにこだわる必要はない。遺伝子の乗り物であることから解放されて自由に人生の目的を設定することができるようになった、というのが人間という生き物の面白いところなのだ。
家族関係でも、血の繋がりがない養子の場合は親子間で伝えられるのは遺伝子ではなくミームになる。僕は遺伝子を残したいという気持ちはあんまりないんだけど、こんな風に文章を書いているのはミームを拡散していることになると言えるし、僕にとっては書くことで何かを残したい願望をある程度解決しているのかもしれない。
宇宙から見ればどうでもいい
でもさらに一歩進んで考えると、ミームを残すことにもそんなに意味がないような気がする。
遺伝子にしろミームにしろ、生きているうちに人間が残したほとんどのものは百年もしたら大体どうでもよくなる。子孫が残っていても百年前の御先祖様のことなんてわりとどうでもいいだろうし、生きてるうちに成し遂げた仕事も百年経てばほとんどのものがなくなっている。百年どころか五十年でもかなり怪しいものだし、千年も経てば全て平等に何も残っていない。
「宇宙から見ればどうでもいい」という言葉を僕はよく思い出すようにしている。