「イメージよりも事実」の理由
開沼博(以下、開沼) 先ほど糸井さんのおっしゃった「事実認定」のお話は、非常に重要な部分だと思います。たとえばわたしの場合、この『はじめての福島学』はどんな本かと聞かれることも多いんですが、「民主主義を回復するための本」だと思っているんです。
糸井重里(以下、糸井) ほう。
開沼 どういうことかというと、健全な民主主義が成立するために必要なのは、まさに事実認定をできているか、ということなんですね。たとえば成人式のニュースで、会場のレポーターが新成人に「いまの総理大臣は誰ですか?」とか「アメリカの大統領は誰ですか?」とかの質問をする。そして新成人が的外れなことを言って、その答えをお茶の間の「みんなが笑う」わけですよね。成人を迎えておきながら、そんなことも知らないのか、と。でも、福島の問題はぜんぜんそこまでいってないんですよ。明らかに違うことに対して「みんなが笑える」前提ができていない。
糸井 ああー、そうですね。
開沼 「いまの総理? 田中さんだっけ?」と的外れな答えが出てきたときに「いやいや、何言ってるの(笑)」っていう反応をお茶の間のみんなが返している。これって、実は高度なことなんです。明らかに違うことに対して「みんなが笑う」という前提がないと、民主主義が成立しない。というのも、「安部総理の経済政策は」っていう話をしようとしても、そもそも「あれ? いまの総理って安倍さんだっけ?」「いや、佐藤でしょ」という問答がだらだら繰り返されると、もはや議論にならない。総理大臣の名前を忘れたときに「みんなが笑える」前提がないと、どんな議論も生まれない。
そこのところ、まさに糸井さんがおっしゃった「事実」の共有がないと、賛成や反対の議論にもならないんですね。議論にならないということは、そこに民主主義は生まれない。代わりになにが生まれるかと言えば、恐怖政治です。危機を煽るリーダー、根拠なく明るい未来をでっちあげるカリスマ的な指導者に民衆が引っぱられていってしまう。結果、独裁が生まれてしまう。明らかに違うことに対して「みんなが笑える」前提があるっていうのは、尊いことなんです。通常は、教育やメディアがその前提を地道に作って行く機能を果たします。ただ、福島の問題についてはそれが機能不全を起こしていたと言っていいでしょう。
そういう意味で、わたしが福島の問題に取り組んでいる中で『はじめての福島学』を書いたのは、まさに「民主主義の回復」という大きなテーマがあってのことなんです。だから、いまの糸井さんのお話には、たいへん共感しています。一方、いまの話を聞きながら思ったことがあって、あえて乱暴な言い方をしてしまいますが……。
糸井 どうぞ。
開沼 糸井さんがいままでやってこられたお仕事って、「事実認定」とは別のところで、「イメージをどうつくるか?」というお仕事でもあったのかな、と。なにかあたらしい商品を売るときに、こういうコピーを付けて、こういうパッケージングをして、こうやって届けるんだ、といった広告戦略をずっと考えてこられただろう糸井さんが、どうして「でも、事実なんだ」という結論に至ったのでしょうか?
糸井 それは、ぼくは広告屋に飽きたときからずっと続いていることで、どんなキャッチフレーズをつけたとしても、どんな広告の戦略を練ったとしても、ダメな商品はダメなんですよ。
これはよく話す例なんですけど、いちばんいいキャッチフレーズは「洗って、乾かして、畳んでくれる洗濯機、新発売。」なんです。これにかなうものはないんですよ。だから、いま広告がやるべき仕事は、みんなが「それほんとかよ?」と思う広告を先につくって、その広告で語られている商品を、あとからつくっていくことだと思うんです。
開沼 なるほど。
糸井 たとえば、「いちばん理想の飴はなあに?」と聞かれたときに、こういう飴がいいな、あんな飴がいいな、と考えますよね。ところが、ほんとにすばらしい飴を考えられる人はいないんです。もしも大勢の人たちが「それはおれも舐めたい!」と思うような飴を思いついたとしたら、あとはそれをつくればいい。それだけなんだけど、まず思いつかない。
そうやって広告が先にできたものがあったら、かなわないですよ。だから、ぼくが広告屋を長年やってきて行きついた先にあったのは「事実として売れるに決まってるもの」だったんです。しかも、これって勉強することじゃなくって、みんな実感として持っているはずなんですよね。
開沼 どういうことでしょう?
ぼくはことばの魔法使いじゃない
糸井 たとえば、スカイツリーをつくるときだって、できる直前までみんな反対なんです。でも、いざ出来上がってしまうと「ちょっと見に行こうか」になるじゃないですか。あれ、奈良の大仏のころから同じことやってるはずなんですよ(笑)。
会場 (笑)
糸井 もう、ずぅーと、そう。「あんなもののために年貢を納めるなんて」みたいな話は、ずっとむかしからあったはずなんです。でも、実際にデカいものができあがったとき人間がどう感じるかってのは、勉強なんかしなくてもわかるはずのことなんですよね。ひとりの大衆として世のなかと向かい合っていれば、ちゃんと感じているはずのことを、送り手になった途端に忘れちゃう。それだけなんです。
開沼 そういうことかー。
糸井 だから、周りからみて「あいつはへたなコピーライターだな」っていう人間がいたとしたら、それは送り手の都合で書いてるからダメなんです。そのコピーを書いたときに「みんなこう思うだろう」という感覚は、受け手として健全に持っているはずなのに、送り手になると忘れちゃうんです。