オレが大石さんを守ろうとしたことが、結果的に
最終日、大石さんは午前中にサイン会、午後には昔の作品の関係者によるディスカッション、夜はイベントの決勝大会を兼ねたエンディングセレモニーに参加することになっていた。大石さんは、それまでにも求められるたびにサインに応じている。それに午後の座談会は声優さんを中心に行われるため、あえて出席しなくてもよさそうだった。それでオレは、昨日の晩、通訳にかけあってその両方をキャンセルさせてもらっていた。
オレも朝寝を決め込んでいたが、早々にノックで起こされた。朦朧としたままドアを開けると、客室係のオバサンが大声を出している。チェックアウトがどうのこうのと言ってるようだが、何が何だかわからない。廊下に出てみると、大石さんの部屋のドアが開け放しになっていた。部屋は、すっかり片付いていた。不気味なくらい、そこには人の気配が消えていた。大石さんの荷物はボストンバッグにきちっと収められ、部屋の隅に置かれていた。それは、そのまま日本の大石家に送ってくれと無言で伝えているかのようだった。
オレは、大きな鏡の前のデスクに釘付けになった。そこには部屋のカードキーと一緒に、大石さんの携帯が永遠に待てと命じられたように、ひっそりと置かれていたのだ。
「便利になったよね。こんなものがあるから、カミさんも息子も安心しちゃって」
成田で飛行機に乗り込む時、大石さんが携帯の電源を切りながら言った。大石さんの下の息子さんは、今入院している。麻疹だそうだ。峠は越したから、もう大したことはないんだ。でもほら、なんかあるといけないから、いつでも連絡取れるようにしてねって。俺、時々、充電するの忘れちゃったりするから。柏原くん、悪いけど向こうに着いたら電源入れるよう言ってくれるかい。怒られちゃうからさ。
オレは携帯を手に取った。冷たかった。ところどころ人に使われた痕跡があったが、携帯は持ち主がいたことさえ忘れているように沈黙していた。蓋を開いてみると、電源が消えていた。嫌な予感がして、電源を入れた。やはり充電は終わっていた。つまり、大石さんはわざとこれを置いていったことになる。考えたくもなかったが、またもガキのころの記憶と重なった。
親父が死んだ日、書斎で妙な音を聴いた。
オレはお袋にそれを教えたが、お袋は入れ代わり立ち代わり訪れる人の対応に追われ、聴く耳をもたなかった。仕方なくオレは、書斎に入った。その音は、机の引き出しの中から聴こえていた。お袋からは、いつも親父のものを触ってはいけないと言われていた。だが部屋中に立ち込める親父の気配が、オレにいいよと言ってくれてる気がした。引き出しには、二台の携帯電話が並んで収まっていた。その一台が震えていたのだ。
携帯電話が、出始めたばかりだった。政治家はね、選んでくれた人が話したいって思った時には、いつでも話せるようにしておかないといけないんだよ。そう言って、親父はいつも二つの携帯を離さなかった。携帯を忘れたときは必ずとりに戻るか、お袋が届けるかしていた。その携帯が、前の晩に家を出た親父と一緒にいないのが不思議だった。震える携帯を見ていると、親父がその小さな機械の中で何かをしゃべってるような気がした。親父が死んだと言われてもピンとこなかったオレには、不思議なことだらけだった。そのうちもう一つの携帯も震えだし、引きだしは二台の震動でやかましく音を立てた。それでオレはぴしゃりと引き出しを閉め、「うるさい!」と叫んだ。やっと自分がムカついてることに気づいた。そして目頭がかっと火がついたように熱くなっていたことも。それでも携帯の震動は、オレの小さな脳をいつまでもかき乱し、止むことはなかった。
オレは、大石さんの最悪の事態を思った。
オレを起こした客室係が、掃除機を引きずりながら入ってきた。どうやら彼女は、大石さんが一日早くチェックアウトしたのだと思い込んだようだった。この部屋の荷物はあなたの部屋に運んでいいのか、身振り手振りで訊いてくる。オレはカードキーを掴み「ノーノー、ノット・チェックアウト」と叫ぶと、オレの体重の二倍はありそうなオバサンを部屋の外に押し出した。
大石さんがいなくなったことは、誰にも知らせるわけにはいかない。
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