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「発信力=表現力」ではない
以前、小学生向けの作文指導の本を読んで、愕然としました。そこに模範として書かれていた文章が、とんでもなく的外れだったからです。
日本の国語教育では、「表現力」や「感受性」が重視されていると感じます。「この時の、主人公の気持ちを述べよ」「筆者の気持ちとして、最も適切なものはどれか?」というような問題を、多くの方が目にしたことがあるでしょう。
ですが、考えてみてください。みなさんが社会に出て、一度でも「表現力豊かな文章」を書いたことがありますか? もっと言えば、表現力豊かな文章を求められたことがありますか?
会社で、買い物に行ったお店で、その他どこでも構いません。大人になってから、小説以外で、そのような文章を見たことがありますか?
おそらく、ほとんどの方が「ない」でしょう。
これらの文章を書くのは、小説家、脚本やシナリオを書く人だけです。それ以外のぼくら一般人は、おそらく一生書くことがありません。だとしたら、そんな文章を目指してもまったく意味がないんです。
「子どもには、自分の言いたいことを言えるようになってほしい」
そういう意図で、国語教育はされているのかもしれません。ただ、「言いたいことがいえるように」ということを誤解している大人が多いように思います。
表現力が豊かになる=言いたいことが言えるようになる、と考えている大人がじつに多いのです。そして同時に、表現力が豊かになる=きれいな日本語で小説のような言い回しができるようになること、と考えています。
ですが、それは勘違いです。というか、目標を捉え違えています。
ビジネスの現場では、小説っぽい文章が書けても意味がありません。小説家、脚本家を目指すのならともかく、そうでなければ社会に出てからあのような言い回しをすることがありません。むしろ、小説のような文章を書いたら、即書き直しを命じされるでしょう。
ぼくらが身につけなければいけないのは、「表現力」が豊かな文章を書く能力ではありません。自分の感情、考えていることを相手にしっかりと伝える能 力です。それができていれば、たとえ言葉が少なくても、短くても、同じ単語を繰り返していても、構いません。重要なのは「小説のようなきれない表現」では なく、「自分の感情を表現すること」です。
小学校の「作文」はどこを目指しているのか?
小学生の作文について調査をしていて愕然としました。「起承転結の文章」が"いい作文" "模範" とされているのです。「起承転結で書けば、相手の心をつかめる」ということも、まことしやかに語られています。
起承転結で書いていいのは小説や随筆など、プロが読ませる文章だけです。実社会やビジネスの現場では、「起承転結」で表現してはいけません。それでは、ものすごくわかりづらくなってしまいます。
ためしに社内の報告文書を起承転結で書いてみたらその弊害がよくわかるでしょう。
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今朝、ぼくはいつものように電車に揺られていました。窓から見える朝日が、とてもまぶしく感じました。隣に立っている人は、毎日違うはずなのに、なぜかいつも同じ人を見ているような錯覚を覚えます。これが「都会」というものなのでしょうか。
「あっ!」
電車が急ブレーキをかけ、多くの乗客が波を打ったように揺れました。どうやら人身事故だったようです。最近、本当に人身事故が多い。ケガをされた方がご無事でいらっしゃることを祈るしかありません。
これが、今朝起きたことのすべてです。だから遅刻しました。
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もしこんな「遅刻報告」をしたら、相当怒られますね。怒りを通り越して、呆れられてしまうかもしれません。
実社会では、起承転結で文章を書いてはいけません。大事なのは「結」で、「結」を最初に言わなければいけないのです。
しかし、そんなわかりづらい文章が小学校の作文で「正解」とされています。そして、ぼくらは意識的にせよ、無意識にせよ、そんな「正解」を目指してきました。そのせいで文章が書けなくなり、自分の意見をうまく表現できなくなっていると思うのです。
ぼくは作家で、文章を書くことを仕事にしています。ところが、そんなぼくでも、「起承転結」で文章を書いたことはありません。また、10年弱にわたって企業にも勤めましたが、その間にも、もちろん「起承転結」を求められることはありませんでした。