いとう・けいかく◎SF作家。1974 - 2009
01-24, 2006 いずこの地で
■さすらいびととして死ぬこと
追放/亡命とは、もっとも悲痛な運命のひとつである。近代以前の時代において追放がとりわけいまわしい刑罰であったのは、それがただ家族や住みなれた場所を離れ、何年もあてもなく放浪することを意味しただけでなく、一種の呪われた者になることを意味したからである。
──エドワード・サイード『知識人とは何か』
あなたは、どこで死ぬだろうか。
もちろんそんなこと、わかりっこないという人がほとんどだろう。病院のベッドの上で死ぬかもしれないし、明日、車に轢かれてぼろぞうきんのように死ぬかもしれない。通勤電車が脱線するなどとは誰も思っていないけれど、それは起こってしまったし、いまや、都市という、予測し制御しようとする志向の産物のなかに住んでいたって、死のバリエーションは山ほどある。
だけど、あなたがベッドで死ぬとしたら、そのベッドはどこにあるのだろうか。
車に轢かれるとしたら、どこの道路ではねられるのだろうか。
「宇宙戦争」でスピルバーグは暴力として死を描いた。物理的な現実として、映画的なインパクトとして。それは容赦なく理不尽に襲いくる圧倒的な現実だった。人を等しく襲うものとしての死という暴力だった。多くの人が言っている。スピルバーグの暴力の過剰さ、凄まじさについて。ぼくも「宇宙戦争」のときに書いたし、この「ミュンヘン」でも一応、その容赦ない物理的インパクトとしての暴力はきっちりある。場面は少ないけれど、期待している人はそこらへんはきっちり期待してくれていい。
けれど、そこで「暴力すげー」では「宇宙戦争」と同じ話で終わってしまう。実際、この映画はその先の領域を描いているのだから。