午前中、坂井との面接と上杉の緊急事態に辟易とさせられた美沙は、外ランチへ向かうべくエレベーターへ乗り込んだ。久しぶりにご褒美ランチだ。乗り込んだエレベーターは先客で混み合っていた。
「失礼します」小さく頭を下げ、右端へ滑り込む。一息つくと、ふと入社当初のことが回想された。
当時の美沙はお財布片手にランチへ繰り出すOLに憧れ、毎日のように彩名とネットで評判の店へと繰り出していた。「せっかくだから、奮発しちゃおう!」なんて、給料日には三千円のコースランチを食べ、「セレブ~」なんて、彩名と燥いでいた。「せっかくだから」が口癖の彩名につられ、ボーナスが出たときには、かの有名な『久兵衛』のお鮨を食べにも行った。せっかくだから午後休を取り、せっかくだからお共にビールを添えて。
いま考えると、何とも暢気な話である。暢気な話だ、と思うけれど、エレベーターの下がる回数を目で追っていると、そんな暢気な自分も、少しばかり愛おしく思えた。
チン。
『開』ボタンを押し最後にエレベーターを降りると、真っ直ぐと目的地へ向かった。『パスタジロー』。老舗のパスタジローは、十二時すぎに訪れても九割方入れる穴場であった。しかし、美沙がパスタジローを選ぶ理由はそれだけではない。パスタジローの明太パスタシチリア風は美沙の大好物だった。初めて耳にしたときには、大好きな明太パスタを侮辱されたかのような苛立ちを覚えたが、一口味わった瞬間、その思いは一変した。シチリア産のレモンを隠し味にしたそれは、まさに絶品だった。口に含んだ後の鼻に抜けるレモンの香り。シチリアの風を感じた。大してシチリアを知らないくせに。
店内はやはり空席があった。案内されるまま奥の席へと向かう。
「浅井さん」
腰を下ろしかけた途端呼びかけられた声に、お尻はワンバンドして着地した。何となく、おそるおそる振り返る。太くて低いその声の主は、想像をまったく裏切らない。
「ご一緒してもいいですか?」
恋愛映画ならば間違いなく素敵なシーンなのであろうが、もちろん美沙にとってまったく素敵なシーンにはなり得ない。
「あっ、どうぞ」
せっかく逃げられたと思ったのにランチを共にすることになるとは……。自然と美沙は眉根を寄せていた。
その後、もちろん美沙は明太パスタシチリア風をオーダーし、坂井はナポリタン古風をオーダーした。○○風が拘りらしいこの店で初めてナポリタン古風を目にしたときから気になりつつもオーダーできずにいた美沙は、この最悪な状況に僅かばかり感謝をすることができた。
「浅井さん、緊急事態は収束できましたか?」
「はい」
「それはよかったです。ちなみに、どのような緊急事態で?」
坂井は美沙の目を正面から覗き込んできた。予期していたものの、実際太くて低い声で問われると、胸には何か得体の知れない生物が無数に徘徊しているかのような、そんな気持ちの悪さに吐き気がした。おそらく、その生物の名は『ウンザリムシ』。
「接待費の領収書が違っていたのですが、経理が処理をする前だったので問題はありませんでした」
「そうですか。処理をする前でよかったですね」
「はい」
「でも浅井さん、大変ですね。溜まって出された領収書の精算書作成を必死にこなして、早急に経理に提出したというのに、今度はそれを引き取って来い、だなんて内線で呼び出されて」
「いえ、大丈夫です」
「困りませんか?」
「はい、困りません」
本音をいうと、困る困る。困るどころの話じゃない。大変困っております。と美沙は声を大にして叫びたかったが、もちろん、そんなことは言わない。言ってはならない。そうもう一人の美沙が主張する。
「では、浅井さん以外に困る人はいませんか?」
それはもう、決まっているじゃない。
「本人が困るのではないでしょうか? 立替金の入金が遅れれば、本人のキャッシュフローが厳しくなりますから」
「それだけですか?」
それだけ、じゃないの? やはり食いつかれると、何としてでも答えを導き出したくなるのが人間の性というものだ。
「いかがでしょうか?」試着したスカートのホックが閉まらない。やはりMにすればよかった……。悔み焦る気持ちを押さえつつも「あっ、いま出ます」と悠然を装って言うみたいに、悠然を装いつつも、片っ端から自身の引出しを覗く。
「そうですね。決算期をまたいだら厄介ですかね? でも、軽微なものですから大した支障はないかと思います」
よし、何とか言った。
「浅井さん」
ギク。
「あなたのおっしゃる通り、決算期をまたぐと決算書にズレが生じます。立替金を利益として計上していますからね。それを修正申請するとなると、株主の不安材料にもなります。
軽微なものとおっしゃいましたが、海外出張費や接待費を半年溜め込んだ社員が百名いたら、それは膨大な金額です。軽視してはならないことです」
何とか引き出した答えにも理路整然と補足をしてくる坂井に、不本意ながらも気圧される。でもそれって、いくらなんでも大袈裟でしょう。
「でも未だかつて、そのような問題になったことは一度もありません」
「だから?」
「だから……よいことではないと思いますが、多忙な営業の方に強いるのはどうかと思います」
やはり緊急事態の内容も上手くかわすべきだったのだ、と自責の念に駆られる。何だか仲間を売ったようで、得体の知れない生物は姿を変えて再び胸を徘徊した。『モンモンチョウ』。
「浅井さんは、何か勘違いをされているようです。いいですか? 会社にはルールというものがあります。ルールには大きいも小さいもありません。ルールを守るのは、絶対です。スポーツでもそうですよね? どんなに素晴らしいプレーヤーであっても、ルールを守らなければレッドカードで退場です。もう一度いいます。ルールを守るのは、絶対です」
絶対絶対って。いつも自信を持って言い切るけれど、世の中に絶対はないんだから。
「お言葉ですが、スポーツのルールと、会社のルールは違うのではないでしょうか? それは、スポーツでルール違反をしたら退場というのは理解ができます。ルールがなければ、収拾がつかなくなってしまいますから。でも、社会におけるルールは臨機応変に対応をするべきだと思うんです」
「臨機応変とは具体的に?」
具体的にと言われ、普段ならたじろぐところだが、美沙には万全を期した一手があった。ちょうど先日その一手を耳にしたばかりだった。
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