自分のスキルで向かわない
—— 松岡さんが70年代から80年代にかけて作られた「遊」は、いま見てもかなり尖っていて、まるで紙の上でできることを全部やろうとしているかのような、すごく意欲的なものだったと思うんです。
松岡正剛(以下、松岡) そうかもしれませんね。
—— 今回『NAZO』は、コンテンツ中にいろんな謎や物語が詰め込まれていて、コンテンツの外にも新しい試みがある。新しいデバイスの上で「遊」をもう一回やったらどうなるか、ということの一つの答えなのでは?
雑誌『遊』(1971年(昭和46年) - 1982年(昭和57年))。
「オブジェマガジン」と称し、あらゆるジャンルを融合し超越した独自のスタイルは日本のアート・思想・メディア・デザインに多大な衝撃を与えた。松岡はこの雑誌の編集長を務めつつ、雑誌そのものへの寄稿、対談なども行い、1979年(昭和54年)には初の単独著書となる『自然学曼荼羅』を刊行する。(wikiより)
松岡 お察しの通りです。実は、僕の中では「遊」ですら紙じゃないんですね。自分の頭のなかで、何かをトランジット(通過)させながら、行ったり来たりを起こす。それが「遊」では紙というデバイスに表現されるし、『NAZO』ではスマホアプリになっていく。これが僕がいつも言っている「編集」なんです。
そこを加速するために必要なのは、自分のスキルだけで向かわないこと。それだと遅くなるんです。
—— 自分のスキルで向かうと遅くなる? そこはもう少し聞きたいです。スキルで向かわないとしたら、何で向かって行けばいいんでしょう。
松岡 自分のスキルには限界があるから、認知限界と行動限界があるわけでしょ。例えばスポーツをしようとするのに肩が悪いだとか、足が遅いだとか、眼鏡かけてるとか、いろんな限界がすべて出てきて、結局はゴルフで言えばレッスンし続けるみたいなことになりますよね。
—— はい。
松岡 それよりもゴルフというものが持っている特徴をなにか別のものにデペイズしたり、置き直したり、トランスフォームした時に、「あ、ゴルフってこういう可能性があるな」というものを、掴みとる。僕は普段から色んなものを別のものに置き換えては戻すようにしているんです。
—— 具体的に言うと、それはどういうことなんでしょう?
松岡 非常に変な例を言うと、最近感動したものが「ざわちん」なのね。
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