ルネおじいちゃんに会うのは、その日が初めてのことだった。
なんというか、「これからルイ14世に会います」とでも言うくらい現実感がなかったことを覚えている。
パリに暮らし、90歳を超えても三つ揃いのスーツを着こんで、パイプとワイングラスを手放さないルネおじいちゃん。ナポレオンの眠るアンヴァリッド廃兵院のホールで、子どもや孫に囲まれて豪勢なパーティを楽しむルネおじいちゃん。
写真で見るルネおじいちゃんは、豪快で、ダンディで、そしていかにもヨーロピアンで。なんだか生身の人間というよりは、古い肖像画に描かれた貴族のように遠かった。
ルネおじいちゃんは、確かに私のおじいちゃんのはずだった。
私は日本で生まれ、フランス人女性に恋し、そしてフランスの法律で結婚をした。
だから、自分の妻の祖父であるルネおじいちゃんは、確かに私のおじいちゃんでもあるはずだ。でも、何年も何年も会えないままでいた。
「おじいちゃんは心臓が悪いし、若いころに同性愛を批判するような発言をしていたらしいんだ。だから、孫が同性結婚したなんて知ったら、心臓麻痺で倒れちゃうかもしれないよ」
「そんなことがあったら、私は自分を許せない」
うつむいてそう言う妻を前に、「それでも挨拶を」と強いることなんてできなかった。
「友達として来ればいい」と義母は言ってくれたけれど、そんな嘘をつくことだって苦しかった。
私は、自分をいないことにし続けた。おじいちゃんには会いたいけれど、そのせいでおじいちゃんに何かあったら私だって自分を許せない。
そうしている間に、妻と私との結婚式が近づいてきた。家族ひとりひとりに声をかけていくうち、なんだか、おじいちゃんおばあちゃんに隠しごとをしているような気分になってくる。
「こんなのって、よくないと思う」
「おじいちゃんおばあちゃんだけ仲間外れにして、結婚式に来てくれた家族にまで『まだ独身』って嘘をつかせるの?」
「人間は変わるものだよ。確かに若いころは同性愛を批判していたけれど、90歳の今もそうだとは限らないでしょう」
「そもそも、同性結婚である前に、あなたと私の結婚でしょう」
おじいちゃんに挨拶なしで、結婚することなんてやっぱりできない。妻も私も周りの家族も、だんだん同じ気持ちになりはじめていた。
「それに、ルネおじいちゃんはね、若いころフランス陸軍大佐だったんだ。ユダヤ人や障害者や同性愛者を迫害していたナチス・ドイツに対し、敗戦を認めずに戦い続けていたレジスタンスだった。そういうおじいちゃんが日本人や同性愛を差別するとは、ちょっと、思えないな」
そういうことで妻と私は、ルネおじいちゃんとルネおばあちゃんが暮らす街へのバスに揺られていた。心臓のあたりをぎゅっと手で押さえながら。
「いいヤツを開けてやる!」
ルネおじいちゃんは折り畳みのナイフを、慣れた手つきでパチンと開く。
もう耳が遠いおじいちゃんは、怒鳴るようにしゃべる。でもその声は深く深く響き、フランス語であるためかどこかしら優しい。
かたわらにはシャンパンのボトル。相変わらずおしゃれなスーツ。ぎらりと光るナイフをボトルの口にあてがい回す。手伝います、と申し出た孫ふたりと妻を、ルネおじいちゃんは無言のまま片手で制した。
ぎりぎりと針金がゆるむ。90歳のルネおじいちゃんの、その手つきはゆっくりで、でも確実だった。しわとシミに覆われた、分厚く大きいその手。
この手でおじいちゃんは、何本のシャンパンを開けてきたんだろう。
この手でつかんだナイフを、誰に、何に、向けてきたんだろう。
いま、その手がコルクをつかみ、ギシギシとゆるめていく。孫の結婚を、同性結婚を祝して開けようとしている、そのシャンパンの栓をギシギシとすこしずつゆるめていく。
——ポンッ!
パーンッ!
栓が飛び、グラスが砕け散る。
「おっと」ルネおじいちゃんはあふれる泡を生き残りのグラスに流し込む。
「Ça va?(大丈夫か?)」
ルネおじいちゃんは自分の妻を、孫を、順番に見やった。私とも目が合う。てへっ、といった感じでおじいちゃんが笑う。
「すまないね! 俺もまだまだだな」
おじいちゃんはシャンパンをついだグラスを、自らひとりひとりに配ってくれた。仕立てのいいシャツに合わせたベストもシャンパン色で、磨き込まれた革靴の足元まで決まっている。ここはフランスだから、リビングでもみんなが靴を履いているのだ。畳に座って食卓を囲んできた日本と違い、フランスでは立ってお酒を飲むことも多い。もしかしたらグラスが割れちゃったときに備えて家の中で靴を脱がないのかも……なんてふと思った。
ルネおじいちゃんはソファに沈み込むように座り、自分の目の前にグラスを持ってくる。パチパチはじけるシャンパンごしに、おじいちゃんが青い目をぎゅっと凝らすのが見えた。
「みんな、グラスの中にガラスのカケラが入ってないか一応確認してくれよ!」
グラスの中を見ながら眉根を寄せるルネおじいちゃんが、はじめて90歳らしく見えた。
「まあ、とりあえず。乾杯しようじゃないか——若い者同士でな」
「へへへ!」と、自分で自分の冗談にウケたおじいちゃんの隣で、おばあちゃんがほほえんでいる。ふたりの様子は重ねた月日を感じさせて、同時に、どこか初々しかった。
わかっているようで忘れがちだけれど、大人というのは子どもの大きくなったやつだ。「若い者同士でな」と言ったおじいちゃんのいたずらっぽい顔を見て、なんだか、子どもの頃のおじいちゃんのことを聞きたくなった。
それから、これもわかっているようで忘れがちだけれど、人と人が生きて話せる時間は限られている。子どものころのおじいちゃんの話は、はっきり言って、いつ聞けなくなるとも限らない。
「今までのことを聞かせてください。どんな子ども時代を送られましたか」
私は、妻の隣から、おじいちゃんにたずねた。
フランス人と日本人。
青い瞳と黒い瞳。
そういう意味で妻と私は違うけれど、ルネおじいちゃんとルネおばあちゃんの前では同じように孫だった。
おばあちゃんはふっとほほえんで、ルネおじいちゃんの方を見る。妻によればおじいちゃんがおばあちゃんと出会ったのは、おじいちゃんが前の妻との子どもを育て上げてからのことだという。
だからおじいちゃんとおばあちゃんとの恋物語は、50歳を超えてから始まったのだ。実はおばあちゃんの名前もルネだ。年を重ねてから出会い結ばれた、同じ名前のふたり。おばあちゃんもまた、出会う前の“ルネ少年”の話をいま聞こうとしているようだった。
「子ども時代か。子ども時代は、生まれる前から色々あったなぁ」
ルネおじいちゃんはマッチを擦って、くわえたパイプに火をつける。ぽこぽこと立ちのぼるけむりを、ルネおばあちゃんと、私たち孫が見ている。
「俺のパパが捕まって、スイスに送られたんだ。頭に穴が開いたままなぁ」
「何があったの!?」
驚く私たちに、ルネおじいちゃんは言った。
「戦争だよ」
女同士のリアルを知るうちにあなたの生きづらさもなくなっていく?! フランスで国際同性婚をし、愛する奥さんと暮らしている牧村さんの日常がかいま見える人気連載「女と結婚した女だけど質問ある?」もcakesでお楽しみいただけます。
新書『百合のリアル』も好評発売中です。