あらすじ:児童養護施設に転職した元営業マンの三田村慎平はやる気は人一倍ある新任職員。 愛想はないが涙もろい三年目の和泉和恵や、理論派の熱血ベテラン猪俣吉行、“問題のない子供"谷村奏子、大人より大人びている17歳の平田久志。児童養護施設を舞台に繰り広げられるドラマティック長篇です。
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「まぁ、すてきなお孫さんですねぇ。それでは、お誕生日プレゼントに、有川浩さんの『明日の子供たち』はいかがでしょうか。先週発売されたばかりの小説で……」
サービスカウンターで本に関する相談を受ける長谷川さんは、目の前のパソコンの検索システムが使えない。データの見方も、伝票の作り方も、何度教えても覚えられない。けれど、本に関する知識と記憶だけは別だ。彼女は間違いなく、そこだけはスペシャリストだった。
お客様の曖昧な記憶から、探している本をピタッと言い当てたり、こんな内容の本と言われれば、自分が読んだ中からサッと選んで提案する。その本がどこの棚の上から何番目に差さっているのかも記憶しているので、確かに検索システムは不要かもしれない。
しかし、その膨大な記憶を一部削除してくれたら、せめて自分が昼ごはんを食べたかどうかくらい、憶えていてくれるようになるのではないだろうか。
若い頃は華奢な体型だったということが信じられないくらいの肥満体。健康状態も芳しくないらしい。コレステロール値が高い。血圧が高い。万年、腰が痛い。最後のは書店員の持病だが。
「副店長、長谷川さんってこのあとレジ番だけど、大丈夫ですかぁ? また先月みたいに、5分やって30分休憩とか、まじありえないんですけど~」
藤澤さんは、最年少の女子高生アルバイトだ。事務所で作業をしていた私の隣にドカッと座る。
一見ギャル風で採用を迷ったが、仕事のスピードが早く、責任感もあって、1年経った今ではアルバイトのリーダー的存在だ。
「長谷川さん、レジ中に何度もトイレ行くし~、カバー掛けるのも丁寧すぎて遅いし~、すごいイライラする~」
彼女は私にとてもなついていて、度々こうして長谷川さんへの愚痴をこぼしに来る。
「お手洗いが近いのは、お薬飲んでるから仕方ないんですって。その分、藤沢さんががんばってくれるから、本当に助かってるよ」
何だかんだ言って、ちゃんと長谷川さんのフォローをしてくれるから、つい彼女と組ませてしまう。あとで彼女の好きなハッピーターンでも買ってこよう。
長谷川さんは、三省堂書店有楽町店の社員の中では最高齢の、65歳だ。今月末で、定年を迎える。
性格はごくご控えめで、温厚。アルバイトに面倒なトイレ掃除を押しつけられたり、お客様から「店員さん」ではなく「おばあちゃん」などと呼ばれても、ニコニコと笑って頷いているような女性だ。
孫のような年齢の藤澤さんに、仕事の遅さで嫌味を言われても、ペコペコと詫びてしまう。見ていてイライラしてしまうくらい、いい人なのだ。
かつて長谷川さんは、三省堂書店のエースとよばれる、カリスマ文芸担当だった。取材はひっきりなしで、作家や出版社からの信頼も厚く、過去最年少で副店長に昇格した記録も持つ。しかし40代半ば、更年期障害で体調を崩し、やりたいことができないジレンマで精神を病んでしまった。
本部に勧められるまま休職し、5年後になんとか復帰したものの、出世ルートからは完全に外されてしまったようだ。彼女に声を掛けるマスコミはもういなかったし、もう文芸担当でもない彼女には、作家にとっても出版社にとっても、価値は無かった。気付けばかつての同僚たちは、みんな本社で課長や部長になっている。
この年齢で役職が何も付かず、売場に立ち続けている社員は、彼女の他にいない。
私は長谷川さんの娘のような年齢であるにも関わらず、役職は副店長、彼女の上司だ。おそらく順調にいけば、40になる前には、本社勤務になるだろう。
「おつかれさまでしたー! はぁ~、今日は連休前だから混んだなぁ!」
藤澤さんが、ノロノロと歩く長谷川さんを追い立てるようにして、事務所に戻ってきた。
腰が曲がり始めているとはいえ、二人の身長差は20センチ以上あるだろうか。
「おつかれさま! レジに全然出られなくてごめんね。でもおかげで、ウィークリーレポートが何とか間に合いそう。ありがとう」
私は笑顔で労いの言葉をかけた。忙しい日に長谷川さんとの仕事で、相当なストレスが溜まっただろう。
「タイムカード切ったらおやつどうぞ!」
「あっハッピーターン! 副店長、大好き~」
閉店後に、事務所でお菓子をつまんでおしゃべりする時間は楽しい。社員はまだまだ仕事が残っているが、いい気分転換になるし、売場の情報収集もできる。
「そういえば副店長~今週の週刊文潮、超売れてたよ~」
「あぁ、ほんと? 明日追加発注しなきゃ。でも何でだろう」
ずっとレポートにかかりっきりで、データをチェックする余裕がなかった。
「独占スクープですよ! いや~びっくり! 女優のカナコが児童養護施設出身だったんだって。デビューから10年も、ずーっと隠してたとかって、表紙に書いてあった。ほら、ジャジャーン!」
高校生のくせにゴシップ好きの藤澤さんは、ちゃっかり閉店後に週刊文潮を買っていた。
「副店長、見て見て! こんな美人なのに、新聞配達やって、奨学金もらって、高校出たんだって。超かわいそう」
「あぁ、ほんとだ。へぇ、大学行きたかったんだ。かわいそうだけど、なかなか無理だよね」
「ブブーッ」
女優のスクープで盛り上がる私たちの横で、モタモタと着替えてようやく退勤しようとした長谷川さんが、タイムカードリーダーから警告をくらった。
「あ~、長谷川さん、ま~たカードの向き間違えてるよ」
藤澤さんが馬鹿にしたように笑う。
長谷川さんも一緒になって笑って、そのままカードを置いて帰ろうとした。退勤の打刻ができていない。
それをされると、後でデータを調整するのがとても面倒なのだ。さらに何度注意しても、着替えた後に打刻しようとする。会社は、あなたが着替える時間にまで給料を払う義務はない。
この人は、何度教えてもヘラヘラ笑って覚えようとしない。
「長谷川さんっ!」
レポートが大詰めで、疲労がピークに達していた。
「どうして覚えられないんですか! カードの向きはこう! 着替える前に切る! 毎回毎回言わせないでください!」
ガミガミガミガミ……
長谷川さんは何も言わず、じっと小さく丸まっている。
ハッピーターンをくわえた藤澤さんが、
「うわぁ、超年下に叱られて、か~わいそ~」
と、小声でつぶやく。
「かわいそうじゃないです……私、かわいそうなんかじゃないですから……」
長谷川さんは相変わらずヘラヘラ笑顔のまま、でも紙のような顔色をして、申し訳なさそうに事務所を出て行った。
翌日、長谷川さんは無断で欠勤した。復帰してから欠勤は一度もなく、人身事故と脱線事故が同時に起きても1時間前に着くような人が。
「副店長~、いい年して無断で休むとかありえなくないですか~! 長谷川さん、もうクビでしょー!」
長谷川さんのせいで、デートの予定だったところを急に呼び出された藤澤さんは、ハッピーターンどころでは治まらないほど、不機嫌だ。
「まぁまぁ」
あとちょっとの辛抱だから。さすがに口には出さなかったが、心の声で慰めた。
実はクビにしなくても、長谷川さんは今月末、定年を迎える。有給が30日も残っているので、実はもう出勤する必要はないのだ。
翌日も長谷川さんは出勤しなかった。こちらが気を使って、もう有給を消化するためにお休みしていいと言ったのに、最後まで店に出たいと言い張ったのは誰だ。
携帯に電話をすると、留守電になったため、メールを打った。
「長い間、お疲れ様でした。このまま有給を消化して、ゆっくりお休みください。ロッカーの荷物は、ご自宅に配送しておきましょうか?」
しばらくすると、返信があった。
「ありがとうございます。ご迷惑をお掛けして申し訳ございませんが、そのようにお願いいたします」
え、普通、取りにくるでしょう!
何だか、がっかりした。
「あ、いらっしゃいませ。いつもありがとうございます。佐伯泰英の新刊、入ってますよ!」
常連のお客様は、新井さんと同年代で、彼女に進められるがまま本を読んでいたら、すっかり佐伯中毒になったクチだ。
「それはもう買ったよ。そうじゃなくてこれ、見た?」
60歳以上であることが出場条件の、シルバービブリオバトル番組だ。人生経験が豊富なだけ、脱線して飛び出すエピソードがおもしろく、ひとりの持ち時間が5分しかないことが、毎回悔やまれる。
「あれっ!」
「そう、長谷川さんが出てるんだよ」
大きめのスマホ画面に、よそ行きのワンピースを着た長谷川さんが映っていた。
少し、痩せたような気がする。顔色も、どす黒い。
<私はこの長いようで短い人生で、実にたくさんの本を読んでまいりました。
特に、精神を病んで休職している間は、本をむさぼるように読みました。その頃読んだ物語は、常に心の中にあり、寄り添うように、今も共に生きています。>
制限時間との戦いでもあるのに、ゆっくりとした仕草で、本を手に取る。
<さて、みなさんは、本に価値観を転倒させられたことがありますか? 私は先日、見事に価値観の壁をぶち壊される読書をしました。有川浩さんの『明日の子供たち』です。
児童養護施設で暮らす少女が、著者の有川さんに「自分たちのことを書いて欲しい、そしてみんなに知ってほしい」と手紙を出し、それが受け止められて小説になりました。素敵な奇跡です。
親とは暮らせず、規則に縛られた共同生活を強いられ、学費を稼ぎながら学校に通い、社会人になって奨学金を返した彼らを、周囲の人間はかわいそうと言います。私もそう思いました。なんてかわいそうな子供たちなんだろう、と。
でも、その小説で、女の子は言います。
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