大切なのは「理解する」ではなく「知る」こと
—— この本の中では、村人(当事者)でもなく、旅人(部外者)でもなく、敢えて無責任でもいいから「観光客」たれとススメていますよね。
東浩紀(以下、東) そうです。観光客というのは、その村に住んでないから、現場の知識はないけれど意外と生半可な知識は持ってるわけですよ。「一応ガイドブックで読みました」レベルの。そういうのはいい加減でよくないと言われがちですが。
—— 適当に首を突っ込むなんて、けしからんと。
東 しかし、あらゆる現場に詳しくなろうとしても、それは原理的に無理ですよね。だからといって、逆に「日本の国内に閉じこもって日本しか知らない。観光旅行で生半可な知識しか手に入れられないんだったら海外なんて絶対行きません!」というような態度で良いのか。
—— 「バックパッカーみたいにワイルドでディープな旅をする自信もないから、俺はネットカフェでOK」みたいな話ですね。
東 一見、慎み深いように見えるけど、それは単に臆病で世界を狭くしているだけだと思うんですよね。パックツアーだろうがなんだろうが、取り敢えず現地に行って、くわしいことはわからなくても「ヨーロッパって、なんだが街並みが違ったよ」って言えるほうがまだいいんじゃないかと思うわけです。
—— かなり具体的なアドバイスですね。
東 そうそう。まずは村人か旅人か、その極端な二分法をやめて、軽薄でもいいからどこかに行って来いと。
学問の話に戻すと、安易な入門書を読むだけでも、読まないよりは遥かにいいという話だと思うんですよ。その入門書がどれだけだめなものだって、読んだらぼんやりと「こういう世界もあるのか」と知ることができるわけです。そういう軽薄な好奇心みたいなものが、教養というか、もっと言うと自由とか正義の感覚の基礎なんですよね。
—— 自由や正義、ですか?
東 つまり、いろんな世界に対してある程度開かれていること。韓国に行ったら、韓国人は悪いやつじゃなかったと実感するとか、そういう安易な感覚こそが「憐れみ」や「寛容」の基礎であり、自由な社会の基礎になる。これは哲学者のローティ※が言っていることです。これはすごく大事なことなんですよ。
※リチャード・ローティ:1931‐2007年。アメリカ合衆国の哲学者。1979年、『哲学と自然の鏡』において、ポスト“哲学”的時代の到来を予告し、政治、経済学、社会学など幅広い分野での発言において強い影響力をもった 。
—— なんとなくわかります。
東 例えばこういう風に言ってもいい。LGBT※が気持ち悪いって思ってる人たちは、まだまだいるわけですよね。じゃあその人達に対して「LGBTの気持ちをわかってやれ」と言ってもきっと無理だと思う。でも取り敢えずゲイパレードかなんかを、興味本位でいいから観に行ってこいと。そうしたら、「この人たちも楽しそうにやってるし、邪魔すんのもまずいな」って思えるかもしれない。
※LGBT:レズビアン(女性に惹かれる女性)、ゲイ(男性に惹かれる男性)、バイ・セクシャル(両性愛者)、トランスジェンダー(性同一性障害)の頭文字を取った総称であり、セクシャル・マイノリティ(性的少数者)のこと。
—— 悪いやつらじゃなかったな、とか。
東 そう。気持ちまでは理解できないけど、悪いやつじゃなかったなって。まずはそれでいいと思うんですよね。それは「寛容」の大切な基礎なんです。「理解すること」は寛容の基礎じゃないんですよね。
—— そうなんですね。
東 他者を理解することはとても難しい。だからそれを最初から目的にしちゃうと、人は「そんな理解なんかできないよ」って閉じこもっちゃう。それはいま原発事故をめぐっても起きているし、世界で起きてるナショナリズムも同じだと思うんですよね。韓国のことなんか理解できないし、中国のことなんかできない。俺は日本のことで精一杯だ、と。
—— みんながみんな「理解」しなくてもしょうがないと。
旅が教えてくれた本場の仰天ニュース
東 しなくていいわけじゃないけど、別にマストじゃないわけです。中国にさくっとパックツアーに行って、複雑な日中関係はわかんないけど、「飯がうまい!」とか、「マジ!? こっちは餃子湿ってるの!?」とかね。そういうのでいいと思うんだよね。
—— え、餃子湿ってるんですか?
東 湿ってますよ、基本的に。というか、餃子が焼かれてるのは日本だけですよ。