オードリーの発見
「28歳で風呂なし(アパート)で。同級生は、エスプレッソマシーンとかウォシュレットのトイレ買ってるのに、恥ずかしくねぇのか?」
(『オードリーのオールナイトニッポン(2012/12/8)』)
若林正恭は相方の春日俊彰に吐き捨てるように問いかけた。芸人として「売れる」ということが想像すらできない日々。もちろん、売れるための実力も技術もなかった。にもかかわらず、いつも隣にいる春日は現状に満足しているかのように楽しげだった。若林は苛立っていた。
そのやりとりの2日後、春日から若林に電話があった。
「ごめんなさい……」電話の主は涙声だった。「どうしても今、幸せなんですけど……不幸せじゃないと努力って人間はできないんですかね?」(同前)
その2日間を「人生で一番考えた瞬間」(同前)だったと春日は述懐する。
ゼロ年代に興ったいわゆる“お笑いブーム”の最大の功績は「オードリーの発見」だと僕は思っている。
ブームが始まる2000年に結成され、ちょうどブームをなぞるように約10年かけてブレイクを果たしたオードリー。オードリーにとって幸福とは何か? 漫才とは何か?彼らの軌跡をたどれば、現在の芸人のひとつの肖像が透けて見えてくるのではないか。
2008年、ほぼ初めてテレビに登場したオードリーはその年の年末の『M-1グランプリ』で敗者復活戦から勝ち上がり「(自信が)なきゃ、ここに立ってないですよ!」という春日の名言とともに、春日のキャラと「ズレ漫才」が鮮烈な印象を残し大ブレイクを果たした。だがブレイクまでには長い下積み時代があった。
若林は小学生時代から深夜のテレビ番組でビートたけしらが好き放題暴れたりする姿を見て芸人に憧れ、中学・高校時代の同級生だった春日を誘い、お笑い芸人の道に進むことになる。まず若林は、元々はテレビ番組を企画し、制作するようなプロデューサー志望だった春日に漫才の楽しさを教えることから始めた。意外なことに、発想力は乏しいが抜群に華がある春日が裏方志望だったのだ。後に「ズレ漫才」で漫才に新機軸を打ち立てることになるオードリーだが、思えばもう最初から「ズレ」ていたのだ。
大丈夫
オードリーは結成してから約8年もの間、くすぶり続けていた。
元々、初期のオードリー(当時・ナイスミドル)は現在と逆で若林がボケ、春日がツッコミで時事ネタをやっていた。若林が政治家の悪口を言って春日が「言い過ぎだよ!」とツッコむ。若林はダリのようなひげを生やしていた時期もあった。まったくウケないと見ると漫才コントを始めた。春日は髪を逆立てたり、若林は金髪にしたり、キャラを模索した。それでもウケず、今度はコントをやり始めた。迷走は続く。「自分たちにしかできないことを」と考えたのが、高校時代の部活経験を生かしてアメフトの防具を舞台衣装にすることだった。
「人を笑わそうとしているのか、みんなと違うことをやっていると言われたいだけなのか、わからなくなった」※1
最後には「今日が勝負」と言って春日は緑色に毛を染めモヒカンにして目の下に星を描いたパンクキャラになって現れた。だが、その日はラジオの仕事だった―。
明らかに考えすぎだった。
仕事がなく暇を持て余しているとき、決まって若林の元にネガティブ・モンスターが現れた。「こんなことしていていいのか?」「この先どうなっていくんだろう?」などと穴の底に向かってネガティブに考えこんでしまうのだ。
車道に寝転んで車に轢かれようとしたこともあった。そうやって死んだらテレビのニュースに出れるかもしれないと思ったからだ。
そんなとき、若林は「『明るい場所で生活をする権利が君にはないのだよ』と国家社会から言われている気分になった」※1
近所に知り合いのおばさんがいた。彼女は若林が電気を止められてしまうほどお金に困っていることを聞きつけて家を訪ねてきてくれた。
「あんたは大丈夫よ。面白いもの」※1
そう言って彼女は若林にエクレアを渡して帰っていった。若林はそのエクレアを握りつぶして壁に投げつけた。そしてぐちゃぐちゃになったエクレアを泣きながら食べた。
「そのとき、『ああ、僕は“大丈夫”って誰かに言ってほしかったんだな』ということに気付いた」※1
溢れ出る涙が止まらなかった。
「深夜、部屋の隅で悩んでいる過去の自分に言ってやりたい」と現在の若林は言う。「そのネガティブの穴の底に答えがあると思ってんだろうけど、20年間調査した結果、それはただの穴だよ」※1
それを救うのは“没頭”しかない。何かに没頭すればネガティブ・モンスターが襲ってくる隙はなくなる。「ネガティブを潰すのはポジティブではない。没頭だ」※1。何かに没頭すればとりあえず大丈夫だ。本当に大丈夫かなんて根拠なんて誰も持っているわけじゃない。
「大丈夫と言うことから大丈夫は始まるのだ」※1
※1 『社会人大学人見知り学科卒業見込』若林正恭:著(メディアファクトリー/2013年)
ズレ漫才の誕生
そんな売れない時代、自分たちの問題点を見つけるために没頭したのがオードリー自らが開催していた「小声トーク」だ。
ライブ会場を借りる金もないオードリーは、いまや有名になった「むつみ荘」で、六畳一間の春日の部屋に客を招いてこのタイトルでトークライブを開催していた。10人も入ればいっぱいになってしまう「会場」。ときには10人すら集まらず「空席」があることもあった。
そんな客と演者の距離が文字どおり限りなく近いライブでも、「客いじり」はしないストイックなルールを設定した。目的は明確だった。当時、ボケ=若林、ツッコミ=春日だった漫才のスタイルを見直さなければならない、と思っていたのだ。だから、トークの模様をビデオにすべて録画し、徹底して見返す。すると春日のツッコミがほとんど間違ったツッコミであることに気付いた。最もウケていたのが、春日の間違ったツッコミに若林がツッコミ返すときだった。
そして若林は「思いついた瞬間気持ち悪くなった」というほどの天啓を得る。ツッコミの場所が違う、ニュアンスが違うという、ツッコミができてないことをそのまま漫才でやればいいのではないか、と。その瞬間、「ズレ漫才」が誕生した。
しかし、そんな発見と開花は少し先の話。まだ二人に光は見えていなかった。
12回続いた「小声トーク」最終回は最後の挨拶で、雰囲気を高めようと照明代わりにつけたハロゲンヒーターのせいでブレーカーが落ちて幕を閉じた。
若林は「小声トーク」の内容を書き起こし、書籍化した『オードリーの小声トーク』の「あとがき」で、最終回を迎えたあの日を振り返っている。
最後の「小声トーク」ライブ終了後、芸人仲間7、8人が春日の部屋に集まって打ち上げをした。酔っ払った彼らはその場のノリで「ケツチャン」というゲームに興じる。お尻の穴に割り箸を入れ落とし合う下らないにもほどがあるゲームだ。
やがて深夜になって彼らは公園に向かう。
全員が上半身裸になって、相手の背中に極太マッキーで女性の局部を象徴するマークを描ききったら勝ちというバカバカしい即席の競技が行われた。
「28歳にもなってこんなくだらないことをしているオレって芸人らしくない? という激安の自意識と、芸人っぽいことをわざわざするということがもうとっくにめんどくさいんだ。という感情が、正面衝突して、消えた」※2
若林が朝起きると、女性の局部が書かれた男たちの背中が並ぶ光景が広がっていた。そんななか、春日だけが競技に勝ち残ったため背中のマークは「○」になっていた。若林は「どこがだよ」と吐き捨てながら虚しさを抱え、自問自答していた。
「気取って家のなかでライブするなんてことしたってどうにもなんねぇんだよ、と思った」※2
※2『オードリーの小声トーク 六畳一間のトークライブ』(講談社/2010年)
次回「オードリーのズレ漫才と幸福論【後編】」7/30更新予定
てれびのスキマさんの気鋭の芸人評伝が気になったかたは、本書をぜひご覧ください。
有吉弘行のツイッターのフォロワーはなぜ300万人もいるのか 絶望を笑いに変える芸人たちの生き方 (コア新書)
「目次」
序章 有吉弘行と猿岩石の地獄
第一章 オードリーのズレ漫才と幸福論
第二章 オリエンタルラジオの証明
第三章 なぜダウンタウンはそんなにも客の出来を気にするのか?
第四章 なぜナイナイ・矢部浩之はいつもニヤニヤ笑っているのか?
第五章 爆笑問題・太田光の偏愛、あるいは太田光を変えたもう一人のタケシ
第六章 ダイノジ・大谷ノブ彦のどうかしている“熱"
第七章 マツコ・デラックスの贖罪 終章 芸人・有吉弘行のウソ