東浩紀がいま輝いている3つの理由!
縦横無尽の文化人!
思想家として、サントリー学芸賞でデビューし、批評家でベストセラーを出し、小説家として三島賞を受賞するという八面六臂の活躍ぶりです!
経営者でプロデューサー!
「ゲンロン」という出版社を立ち上げ、書籍を刊行。そして、文化人・著名人らによる人気トークイベントを開催する「ゲンロンカフェ」をプロデュースしています!
福島の未来をイメージしている!
「福島第一原発観光地化計画」という復興計画であり日本再生計画を、ジャーナリスト、社会学者、建築家やアーティストたちと進めています!
—— まずは、東さんがこれまでしてきたことを、簡単に教えていただけませんか?
東浩紀(以下、東) では、順を追ってざっくりと説明していきますね。僕は大学生のころは哲学を学んでいました。東京大学大学院の博士課程を修了しています。専門はフランスの現代思想です。ジャック・デリダというフランスの哲学者についての論文などを書いていました。『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』という初めての単著で、サントリー学芸賞をいただいたりもしました。
大学院生になったのは1994年。そのころから徐々に、インターネットのビッグウェーブが日本にやってきたんです。
—— 1994年といえば、アメリカでYahoo!が生まれ、日本ではニフティーサーブがインタ―ネット接続サービスを開始した年ですね。
東 そのころからネットを起点として、大学の権威などが崩れ、ポップカルチャーが台頭してきました。僕もその波に乗って「新世紀エヴァンゲリオン」などのアニメなどを見て、『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』という新書を書いた。すると、この本がけっこう売れて、僕はサブカル評論家みたいに見られるようになりました。これが2001年、30歳になるあたりの話です。
動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)
—— はい。
東 でもこのあたりで、大学で研究者をやっていても意味がないし、サブカル評論家になりたかったわけでもなかったので、一体何をしたらいいんだろうと思い始めるんですよね。
—— 大学で研究をやるのは、なぜ意味がないと思ったんですか?
東 かつて哲学や文学の研究者が大学にいたのは、図書館がないと研究できなかったからなんですよ。でも、インターネットによって、情報が大学に集中している状態ではなくなるだろうと思ったんです。
—— なるほど。
東 閉塞感もあるし、とにかく大学に居続けるのはよくないなと。でも大学が嫌だからって、大学の外で何をやるというのも特になく、ぽややんと生きていたのが30代ですね。
—— ぽややん(笑)。といいつつも、メディアに出られたり、研究所に所属されたりはしていましたよね。
東 社会的なことはあまりしていませんね。メディアに出たりツイッターを始めたりしたのは30代の後半かな。ああ、2009年には『クォンタム・ファミリーズ』という小説を出して、三島由紀夫賞をとりました。でも全体的に30代は、なんかこう、自分探しをしているような、長い夏休みのような状態だったんですよね。
—— 長い夏休みですか。
東 2000年から始まるゼロ年代って、90年代から続く失われた20年の後半部分ですよね。少子高齢化も進んで、日本もこれから滅びていくだろうという予感の中で、社会全体としてやる気がなくなっていた。ゆるくて楽しいけど、確実に終わりに向かっていっている。そういう時代の空気がてきめんに僕にも反映されていたんです。
—— 時代の空気は、どうしても入り込んでくるものなんですね。
東 それは、僕だけじゃなかったと思いますよ。ゼロ年代に30代を過ごした文化人や知識人で、その時期に活躍している人はあまりいないと思います。あと、2000年代に入ったころから、僕は情報に情報を重ねていくだけの仕事に飽きてきていたんです。
—— 情報に情報を重ねる仕事ですか。
東 文学とか哲学の研究って、本読んだり映像見たりして、なにか書く。それだけなんですよ。そういう情報操作だけをしていることが、僕は退屈になったんです。で、30代の後半で子どもができてからは、だいたい年に2回くらい、1週間から半月くらい家族で海外に旅行するようになりました。
—— まさに夏休みですね(笑)。
東 そうそう。外国に行くと、いろいろな場所に足を運んで、体を動かして、見たり、聞いたり、嗅いだり、食べたり、さわったりするでしょう。そういうほうが楽しいな、と思ったんです。そして、そういう感覚を言葉にするには、評論には限界がある。だから、僕は小説を書いたんですよね。
—— そうだったんですね。
東 そして、そんな長い夏休みを過ごしていた矢先、東日本大震災が起こったんです。
東 ここで夏休みは突然終わりました。40歳にもなるし、自分も社会から教わってきたもの、与えられてきたものを返していかなければいけない、と痛切に思いました。震災を前にして文学者や哲学者には何ができるか考えた結果、たどり着いたのが「福島第一原発観光地化計画」だったんです。
—— 「福島第一原発観光地化計画」とはなんですか?
東 文字通り、福島第一原子力発電所の跡地と周辺地域を、事故の真実と復興についての情報を発信し続けるために「観光地化」しようという提言です。もちろん、まだ放射能汚染の問題が収まっていないのにこのようなことを言うのは時期尚早だ、という意見もあります。ただ、この事故の記憶を風化させないためにも、いまから計画を世に発表しておくことが必要だと思ったんです。
—— なぜ「観光地化」なのでしょうか。
東 今はまだ汚染水など放射性物質という物理的な事後処理に追われている状態です。ただ、この問題にある程度片がついたときに、今度は文化的、あるいは精神的な復興としての事後処理、いわば「イメージ戦略」が必要になってくる。それこそが、文学者の自分が現実にできることだと思いました。
—— イメージ戦略、ですか。
東 フクシマという言葉そのものに対して、日本国内のみならず世界中の人々が持ってしまったイメージをどう変えるか。ここにイメージの戦略が必要になってくるのです。日本というのは、もともとイメージ戦略がすごく苦手な国。もっと言えば、嫌いなんです。ものづくりに関しても、いいものをつくれば誰かが評価してくれる、と思っている。この問題は、ソニーなどの日本メーカーとAppleとの違いとも言えます。
—— といいますと……。
東 人の心はスペックでは動かないんですよね。初代のiPhoneが出たとき、日本のガラケーのほうが性能がいいと言ってバカにしていた人はいませんでしたか? そのうち、カッコよくて夢のあるライフスタイルをイメージさせるiPhoneにガラケーは太刀打ちできなくなっていきました。解像度がどうとか、処理速度がどうとか、多くの人はそんな要素で自分が持つ物を選ばないんですよ。
フクシマについてもそうで、「放射線量がこんなに下がりました」「おいしい野菜が食べられます」なんていっても、それはスペック競争なんです。
—— なるほど。
東 そうじゃなくて、やっぱりフクシマという言葉から浮かぶイメージ自体を、力強く、美しいものにしていかないと、長期的な復興はありえないと思っています。
—— そうですね。
東 でも、やっぱりこういう話は、日本ではとても評判が悪い。それは、イメージ戦略というものに対してネガティヴな感覚を根強く持っているから。ただ、それには気づいていない人もいるので、「不謹慎だ」「けしからん」と批判されています。
—— 被災地の方の反応はどうなんですか?
東 じつは、応援してくださる方が多いんです。被災地の方には、僕達がこういった取り組みを始める前から、自主的にスタディツアーなどを組まれていた方などもいます。みなさんやはり、この原発が風化し、忘れ去られてしまうことを何よりも恐れているからです。
—— そうなんですね。
東 僕はこの福島第一原発観光地化計画は、絶対日本にとって必要なことだと思っているんです。長期的には重要な仕事だと評価されるであろうと確信しています。
(次回、6/10更新予定)
執筆:崎谷実穂、撮影:森川陽介
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