「私とはいったいなにものなのか」を促す女という存在
「ドライブ・マイ・カー」での家福の「おまえにはそんなことはわからないよ」というセリフは、現代社会で浅薄に生きる人々を指していた。では、そうでなければ何がわかるのか? 深淵を覗き込んだならどうなるのか。家福の課題は、この作品とパラレルワールドで一体化したような作品「独立器官」に接合されている。餓死である。女を思い、裏切られて、結果餓死する男の姿である。私たちが浅薄に生きなければ、餓死に至るような生の姿しか残らない。「独立器官」の渡会医師はこのように描かれる。
同時に何人もの女性たちと気軽に交際し、芳醇なピノ・ノワールのグラスを傾け、居間のグランド・ピアノで『マイ・ウエイ』を弾き、都会の片隅で心地良い情事を楽しみ続けることもできたのだ。にもかかわらず彼は食べ物も喉を通らなくなるほど痛切な恋に落ち、まったく新しい世界に足を踏み入れ、今までに見たこともない光景を目にして、その結果自らを死に向けて追い立てることになった。
「まったく新しい世界」がどのようなものであるかは、前長編作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の緑川の語りにも示されていた。『羊をめぐる冒険』の鼠の語りにも示されていた。だがそれらは、ただ自己と世界の関わりのなかで、最終的には忌避すべきものとして描かれていた。この短編集では、女との関わりという強度を介して、真実の世界として描かれ始めた。
ではなぜ女なのか? 男にとっての女に限定されるのか。女にとっての男としても同様に鏡像の関係にあるのか。こうした問いを解くために、この小説群が書かれたとしてもよい。突き詰めれば「女」が問題だとは言えない。渡会の話に明確だが、「女」は深淵への契機であり、それは「私とはいったいなにものなのだろう」という最終的な問いに至らせるためのものである。女、あるいは女に仕組まれた「独立器官」がその究極の問いを促していく。
すべての女性には、嘘をつくための特別な独立器官のようなものが生まれつき具わっている、というのが渡会の個人的意見だった。どのような嘘をどこでどのようにつくか、それは人によって少しずつ違う。しかしすべての女性はどこかの時点で必ず嘘をつくし、それも大事なことで嘘をつく。大事でないことでももちろん嘘はつくけれど、それはそれとして、いちばん大事なところで嘘をつくことをためらわない。そしてそのときほとんどの女性は顔色ひとつ、声音ひとつ変えない。なぜならそれは彼女ではなく、彼女に具わった独立器官が勝手に行っていることだからだ。
珍妙な言説にも聞こえるが、西洋の文脈では凡庸な話でもある。創世記の原初の女であるイブ(エバ)の話を思い浮かべてもいい。イブという女は嘘をつき、死に至る知の実を男のアダムに食わせる。それが「原罪」もあり、聖パウロの言葉が呼応する。「ローマの信徒への手紙」より。
わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
「独立器官」は、西洋の文脈では「原罪」とたやすく置き換えることができる。また、この「原罪」を「悪」として捉えるなら、ユング心理学で悪魔を加えた「四位一体」として捉えることもできる。この短編集のテーマは西洋の文脈では陳腐なものになる可能性も否定できない。
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