「お前ら、そろそろ芸名決めてや!」
ある日の稽古終わり、僕とサロンだけが吉田さんに呼び止められた。
前々から吉田さんは僕たちが互いをサロン、コマンドという落研の愛称で呼び合うのを見かねていたのだ。
アマチュアの世界を引きずったまま成功するほど、この世界は甘くない。
プロの芸人を目指すのならば、もう大学のサークルでつけられた名前など捨てるべきだ。
せっかく片方が大学を辞めたのだから、これを機に改めなさい。
ただし、小洒落たコンビ名で各自が本名を名乗ったところで、ここ福岡では誰もお前らを芸人だと思わないから、全員がちゃんとした芸名をつけること。
それも、自己紹介でお笑いだとわかるような芸名を名乗ること。
これは設立当初の福岡吉本が掲げた3大規律のひとつであり、絶対に守らなければならない鉄の掟であった。
だからこそのター坊・ケン坊、コンバット満であり、ひらい凡退、ワコール青木だったのだ。
しかし、僕たちはなかなか芸名が思いつかなかった。
というのも、実は福岡吉本に入る前、正確にはオーディションのだいぶ前に、僕たちは地元のタウン誌に取り上げられたことがあった。
それは高校3年生を対象にした大学紹介のページで、なぜか福岡大学では落研が抜擢され、僕たち1年生を中心に「お笑いにかける青春」という特集記事が掲載されたのだが、これがちょっとした事件を運んできたのである。
そこで僕とサロンは芸人への憧れを語っていた。
もちろん何の計画性もなく、取材ということでいつも以上に調子に乗っていただけなのだが、なんと! 偶然そのページを目にした芸能事務所の人がこの記事を真に受け、わざわざ落研まで僕たちを訪ねてきたのである。
「WEプロダクションの村中です」
「はあ」
ふたり揃って大学近くの喫茶店に連れて行かれたものの、まったく事情が飲み込めない。
渡された名刺に書かれたWEプロダクションという文字が、ふたりの頭上をピヨピヨと飛び回っている。
一体この男性は誰だろう? そもそもWEプロダクションって何だろう?
「本気で芸人を目指しているのなら、東京に行ってみない?」
突然のスカウトだった。
時は1989年。
ダウンタウンやウッチャンナンチャン、B21スペシャルといった、いわゆる「お笑い第3世代」の台頭は、新たなお笑いブームの幕開けを、しかも巨大なムーブメントの到来を大いに予感させていた。
東京に本社を持つWEプロダクションもその波に乗ろうと若手芸人の発掘に乗り出したが、めぼしい若手は既に大手芸能事務所が抱えていて、ならばモノ珍しい九州の人材で対抗しようと、吉本より先に福岡へ上陸していたのである。
「聞いたこともない事務所だから、不安だよね?」
先回りした村中さんが東京への道筋を語り始める。
「でも大本は下田興業というところで、業界にたくさんパイプがあるから大丈夫だよ」
その大本も初耳だとは、さすがに言い出せなかった。
「再来週あたりに社長が来るから、会ってみない? そこで気に入られれば一発だから」
何が一発なのだろう?
どう考えても怪しいが、村中さんの人懐っこい笑顔を見ていると無下に断るわけにもいかず、僕たちはWEプロダクションに顔を出す約束をしてしまった。
「なあ、どうするん?」
「どうするって、知らんばい」
「ばってん、行かないかんやん」
「あそこで断りきらんって」
「東京やら無理ばい」
「俺もくさ。やけんさ、話だけ聞いて断ろうや」
「それでいいとかいな?」
「よかくさ。大体なんなん、WEプロダクションって」
「なんかのドッキリやないと?」
「誰が俺たちにドッキリやら仕掛けるとや!」
曲がりなりにも芸能事務所から声をかけられたという事実は、僕たちを大いに興奮させた。
しかし、あまりにも突然の話であり、あまりにもいかがわしい話であったから、僕たちは落ち着いて対応することが出来たのだ。
福岡市内のマンションの一室が、WEプロダクションの事務所だった。
そこは小さめのワンルームで、こんな小規模の芸能事務所が存在するなんて信じられなかった僕たちは、やや本気でドッキリの可能性を疑ったが、どう考えてもドッキリを仕掛けられるわけがなく、ますます混乱した。
そんな僕たちを村中さんは優しく迎え入れてくれた。
「とりあえず、資料用に顔写真を撮らせてね」
「とりあえず、僕がコンビ名をつけておくから」
「とりあえず、明日は16時にホテルのロビーで」
あっけにとられる暇もなく、僕たちは村中さんの「とりあえず」という言葉に丸め込まれた。
瞬く間に東京への道が舗装され、そのそばから塗りたてのアスファルトが乾いていく。
それはまるで白昼夢を見ているかのようで、いつの間にか僕たちは社長と会わなければならなくなった。
ホテルのソファーに座りながら、村中さんから渡された資料に目を通している、白髪の上品な紳士。
その佇まいは僕が想像していた芸能界の住人そのもので、申し訳ないが村中さんとは比べものにならないほどの存在感と威圧感を持ち合わせていた。
軽く僕たちを一瞥した社長が、いよいよ口を開く。
ここへ来て急に現実へ引き戻された僕は、反射的に奥歯を噛みしめた。
「ヨッチャン・オカチャンね」
社長の第一声は、全く理解できなかった。
「吉岡と岡崎だから、ヨッチャン・オカチャン?」
「はい、それは私が考えました」
「ほう」
生まれて初めて目の当たりにする「社長」と「社員」の会話。
それはとても重厚に感じられて、安易に口を挟めるような雰囲気ではない。
しかし、僕たちも村中さんの「とりあえず」がこんな形で実を結んでいるなんて夢にも思っていなかった。
ヨッチャン・オカチャン? お笑い第3世代を象徴する東京のコンビ=ウッチャンナンチャンを村中さんが知らないわけがないだろう。
いくらなんでも、この名前はない。便乗商法にもほどがある。
「可愛くていいんじゃない?」