録画しておいたオーディション番組を見て、僕は愕然とした。
この日に向けて何週間も稽古をつけてもらったのだから、いくらなんでも多少はマシになっているだろうし、ならなきゃ嘘だ。
そう自分に言い聞かせて本番を乗り切ったつもりだったが、再生ボタンを押してブラウン管に映し出されたのは、なぜこんなものを標準画質で録画したのか腹立たしく思えるほどの、生々しい映像だった。
ネタ中にもかかわらず、恥ずかしがってまともに顔を上げられない、うつむきっぱなしのド素人。
そのくせ、悪びれもせず妙にヘラヘラすることでその場を取り繕うとしている、誰がどう見ても最低の部類に入るであろう、芸人志望者。
残念ながら、それが僕だった。
もはや面白い・面白くないという問題ではない。
根本的に、コイツは人前に出るタイプの人間ではないという動かぬ証拠が、しっかりと映像で残っていたのである。
しかし、それは最初から危惧していた。
というのも、僕は人に注目されることを大の苦手としていた。
落研の発表会なんかでもそうだったが、普段は図々しいほど饒舌なくせに、いざ人前に出されると急に恥じらいを感じてしまって、何もできない。
全てに萎縮してしまうのだ。
この性格を直さなければ、芸人になんてなれっこない。
だから、僕なりに頑張ったつもりだった。
振り返ってみると昔からそうだった。
僕は子供の頃から人に見られることを過剰に意識していたと思う。
しかしそれはただの自意識過剰ではない。ちゃんとした理由があって、僕は人の目を避けてきた。
だからこそ、たった数週間の稽古では変われなかったのだろう。
わかりやすい例を挙げれば、中高で所属していたバスケットボール部の練習において、僕が一番嫌だったのは、キツいトレーニングなどではなく、周囲から僕に向けられる視線だった。
たとえば、体ごと飛び込めば取れそうなボールが来たとする。
しかし、僕は絶対に飛び込まない。
それは怪我が怖いとか、取れる取れないの問題ではない。
取ろうと必死になる姿を人に見られたくなかったからだ。
当然、周囲からは怒られた。
コートの外ではいつも顧問の先生が「気持ちだけでも見せろ!」と怒鳴っていた。
冗談じゃない。
そんなもの見せて、どうするの?
そんな感情はおくびにも出さず、僕は練習に参加していた。
一生懸命な自分なんて、僕は誰にも見せたくなかった。
そんな姿をさらけ出してしまえば、そうまでしたことがバレてしまえば。
もう、言い訳できないじゃないか。
飛び込んで取れなかったよりも、
飛び込んでいたら取れたかもしれない、で終わりたい。
そうすれば、本当のところは誰にもわからないのだ。
全ての結論はひとまず先に延ばせる。
夢が叶うかどうかは、まだわからなくていいんだから。
なるべく「たら、れば」の世界に留まろう。
人前で感じる恥じらいの根本は、いつの間にか僕の体に染み付いた、こんな思想からだった。