確か高校1年の終わり頃。
授業中、なぜかクラス全員が将来の夢というか、将来なりたい職業をひとりづつ順番に発表することになった。
なぜこんなことが行われたのかは記憶にないが、卒業するタイミングが開校十周年という記念イヤーにあたる僕たちの学年は、入学当初から必要以上に大学進学を奨励され、また、上級生たちとは全く違う受験専用のカリキュラムを組まれていたものだから、急にそんなことを聞かれても誰もまともに答えられなかった。
先生にしてみれば青春ドラマのワンシーンのような、せっかくの機会を与えたつもりだったのかもしれないが、とりあえず入れる大学に入ろうという校風の、中の下レベルの進学校では名場面になるわけがなく、それでも発表しなければならないというこの企画は、生徒からしてみれば罰ゲームの始まりであった。
確かに、僕はテレビの世界に行きたいという漠然とした希望を持っていた。
しかしそれをどう言葉にしていいのかわからなかったし、それ以上に、そんな夢をクラスメイトに知られるのは恥ずかしい。
そもそも、学校が親身になって教えていたのは今の学力で入れそうな大学の学部や学科であって、そこから先は特に聞かれることもなかったのだ。
とにかく、進学。絶対に、進学。
そのために学力とは不相応な特別補講が時間割の隙間にびっしりと塗り込まれ、それをこなすだけで毎日が精一杯という生徒ばかりだったから、そんな先のことまでは手が回らなくて当然だろう。
「まだ決めてません」
スタートを任された、廊下側の最前方に座る男子生徒が披露した模範解答は瞬く間に広がった。
少し寂しそうな表情の先生に気を使ったのか、言葉遣いを微妙に変えながら、それでもクラス中が早く終わろうとばかりに、似たようなボールを外野だけで回していく。
「これから考えます」
「大学に入ってから決めます」
「卒業までには決めようと思います」
事務的な流れ作業で語られる僕たちの夢は、教室中の全員を大いにしらけさせた。
先生だって悪気はなかったんだろうが、しかし僕たちにも悪気はなかった。ここは大学への中継地点に過ぎないのだから、そう答えることが正解だったのだ。誰も何も期待していない、無機質で無駄な時間。
そんな中、ひとりの生徒が流れを変えた。
部活にも入らず、成績は中の下ぐらい。特に語られるエピソードもなく、ただぼんやりと毎日を過ごしていたハズの普通すぎるアイツが、颯爽とマウンドに上がったのだ。
「僕は、料理人になりたいです」
予定調和の乱れに、クラス中が無言で動揺した。
あまりにも突然の直球を誰も打ち返せない。
慌ててボールを拾った先生が、暴投気味に投げ返す。
「どうして料理人になりたいんだ?」
そんなことを言わされるから、みんな言いたくないんだ。
理由なんて何でもいいじゃないか!
僕は心の中でベンチを飛び出し、猛然と抗議した。
恥ずかしいだろうから、そんなもの適当に答えなよ。
「たくさんの人に、僕のおいしい料理を食べてもらいたいからです」
気遣い無用、またもド真ん中に第二球目が突き刺さる。
いや、そりゃそうだろうけど、僕たちがさっきまで受けていたのは四年制の私立文系に的を絞った選抜クラス専用の授業なのだ。いささか急過ぎやしませんか?
申し訳ないが普段は気にも留めなかったアイツに、僕の視線はもちろん、クラス中が釘付けになる。
突然のカミングアウトにどう対応するべきか、先生の視線だけが教室の天井辺りをさまよっていた。
「だから僕は、調理師の専門学校に進みます」
その隙に投げ込まれた、全てに先回りする渾身の第三球目。
その呆気に取られるほどの球威に、先生はもちろん、僕たちもまったく動けない。
相変わらず全員が無言だったが、仮にもクラスメイトの一員として、それでも全員の心中は手に取るようにわかっていた。
なんだ今の?
アイツ、なんて言った?
こいつ、スゲェ!
誰もが声にならない雄叫びを上げていた。
盗んだバイクで走り出す理由が無く、夜の校舎で窓ガラスを壊す意味が分からない。
電車の中で押し合う人の背中なんてたかが知れているし、ピンボールが置いてあるスーパーのゲームコーナーは19時に閉まるのだ。
ましてや、あぶく銭のためになんでもやる少女なんて見たこともない。
少なくとも、僕はそんな環境で育っていた。
みんな聴いていたからなんとなく真似していたけれど。
わかったような顔をしていたけれど。
やっぱり僕はどうしても、十代のカリスマに心酔できなかった。
現実味のなさでいうと、ウルトラマンや仮面ライダーと同じだったのだ。
代弁者がいない、地方在住の真面目な高校生。
メディアの中で語られる高校生とのギャップに足元がふらついていた僕には、あと数年で大人になるという実感も自覚もなかった。
そんな僕の前に突然現れた、大人になることに腹を括っていた同級生。
同じ時間割に追われていたハズの目立たないアイツがこの日教室中に鳴り響かせたのは、人生の岐路がすぐそこまで迫っているという、当たり前の非常警報だった。
その等身大のリアルなメッセージは、あのカリスマの歌よりも僕の心を激しく揺さぶった。
この日以来、僕は真剣に将来を考えなければならないという衝動に駆られ、進学パンフレットを取り寄せたりしたのだが、結局は「東京」という口実に逃げ隠れ、その決断を大学へ持ち越していた。
さすがに大学生ともなると環境が変わる。
しかし、その変わり様はどう考えても異常だった。
まだまだバブルの追い風が吹いていたから、就職活動の現場は依然として学生有利の超・売り手市場で、ただ大学生になったという理由しかないのに、僕の実家には入学早々、様々な企業から就職案内が毎日大量に送りつけられていたのである。
ありがたい話ではあるが、そこには必ず「営業」「企画」「販売」「事務」の文字が並んでいて、それは既に将来の選択肢が残りわずかという予告にしか思えず、それが嫌で、それが不安で、それが怖くて、僕は落研に逃げ込んでいたのかもしれない。
その避難先で聞こえてきた、第二警報。
「コマンドは芸人にならんと?」
将来に腹を括った同級生との、時期尚早な二度目の出会い。
サロンから親に内緒の設計図を見せられる度に、僕は虚勢を張って凌いでいた。
「なれるんやったら、なりたいくさ!」
虚勢とはいえ、本音だった。
テレビの中への進入が制作者サイドからは無理ならば出演者に回るしかないのだし、僕だって昔から芸人に憧れていた。
この世代の宿命として当然のように憧れてはいたけれど——それは東京か大阪の面白いやつが目指す道であって、仮に僕が目指そうと思えば、東京か大阪へ行かなければならないのだ。
金銭的な問題がクリアになったとしても、東京や大阪への恐怖心が消え去ったとしても、福岡の大学に通う以上、卒業までこの街にいなければならないのだから。
それは、無理だ。
だったら、なれるわけがない。
最初からそう、割り切っていた。
それなのに!
芸人を目指すと本気で言っている人間に、僕は出会ってしまった。
しかもそれは同郷の、誰よりも気が合う同級生だった。
裕福な家庭に生まれた人間の戯言かもしれない。
そんな家庭環境なんだから、言えることかもしれない。
それでも、その真っ直ぐな瞳はどこかで腹を括っていた。
大人になることに、そして芸人を目指すことに、照れていない。
自分の将来に、自分の夢に、サロンは微塵も謙遜していなかった。
僕は料理人になりたいと思ったことがない。
だから最初の警報では、結局、答えが出せなかったのだろう。
しかし、芸人には憧れていた。
胸の奥にしまい込んで忘れていたつもりだったけれど、
なれるもんなら、なりたかった。
だから——。
第二警報を聞いた瞬間、僕の全身を焦燥感が駆け巡ったのだ。
まさか、本当にコイツは芸人になるんじゃないか?
そんなこと、ありえない。いくらなんでも、なれるわけがない。
しかし、実際にタモリの知り合いの知り合いなのだ。
サロンにとっては、決して不可能な話じゃない。
僕とは可能性が違うんだ。
ひょっとしたら、ひょっとするかもしれない。
そう考えたら、居ても立ってもいられなかった。
ねえ、本当になるの?
本当に、お前は芸人になるの?
僕だって、なりたいけれど。
まさか、なれないよね?
自分でも無理だとは思ってる。
でも、お前はなれるかもしれないんだろ?
もしそうだとしたら
お前だけって、それはズルいよ。
近い将来、どこかの誰かが作ったテレビは我慢できると思う。
だけど万が一、お前だけが出てるテレビなんて始まったら。
このまま指をくわえてお前を見送った後に、そんなものが始まったら。
僕は我慢できないよ。
それを見て、心から笑える自信がないんだ。
だったら、僕もやるしかない。
お前がやるんなら、僕もやるしかないじゃないか。
サロンが鳴らした第二警報は、何かの始まりを告げる号砲にも聞こえていた。
しかし、いくら芸人になりたいからといって、せっかく入った大学を辞めるなんて考えられない。
そもそも僕が大学を辞めたところで、そんな真似をサロンの親父さんが許すハズがないだろう。
日に日に芸人への憧れは強くなっているけれど、考えれば考えるほど、やっぱり無理なように思えるのだ。
おそらく、卒業したら僕は普通に就職する。
サロンだって、結局は実家を継ぐに決まってる。
第一
——振り返ればこれが一番大きな理由だったのだが——
滅多に帰らなくなったとはいえ、僕には親元を離れる勇気がなかった。
僕はずっと、子供でいたかった。
夢が叶うかどうかわからない、子供のままでいたかった。
だから、口では何とでも言えた。
どう転んでも結局は無理なんだから、お笑いへの情熱をぶつけたところで何の責任も生じない。
サロンにつられて本気になりそうな自分もいたし、実際に本気だった自分も間違いなくいたが、常に「福岡」というストッパーが正常に機能し、僕を現実に引き戻していた。
芸人を目指していたという思い出を胸に。
福岡にいなければならなかったから、どうしようもなかったんだという正当な理由を盾に。
僕は逃げ切るつもりだった。
そこに降り注いだ、福岡吉本設立のニュース。
「コマンド、一緒に受けるやろ?」
「う、うん」
「これで芸人になれるかもしれんばい!」
「そ、そうやね」
「どうせ俺たち四年で卒業できんっちゃけん、やるだけやろうや!」
「お、おう!」
僕がまとっていた全ての「口実」は、一瞬で流れ落ちた。
「どうして芸人になろうと思ったんですか?」
あの日の戸惑いを懐かしみながら、僕は答える。
「それは、福岡に吉本が出来たからですよ」
これ以上でも、これ以下でもない。
たったこれだけの理由で、僕は芸人になったのだ。
(撮影:隼田大輔)
次回、3月10日更新予定
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