一故人

藤子不二雄A—明日にのばせることを今日するな

今回の「一故人」は、マンガ家の藤子不二雄A。「黒い藤子」とも呼ばれた彼が歩んだ道をたどります。

藤子不二雄は「二人のチーム名」

『まいっちんぐマチコ先生』で知られるマンガ家のえびはら武司は、高校卒業後の1973年、藤子不二雄—のちの藤子・F・不二雄(藤本弘)と藤子不二雄A(安孫子素雄、2022年4月7日没、88歳)の共同プロダクションであった「藤子スタジオ」に入社し、主に藤子Fのアシスタントを2年ほど務めた(以下、個人を指す場合は藤子Fを藤本、藤子Aを安孫子と記す。なお藤子不二雄Aの「A」の正しい表記は丸のなかにA)。

藤子不二雄はもともと藤本と安孫子の合作ペンネームだが、えびはらが入社した頃にはすでに二人が一緒に作品を描くことはなくなっていた。ペンネームもアシスタントも共有していたとはいえ、仕事場では別々に部屋を持ち、二人が顔をそろえるのはもはやメディアに「藤子不二雄」として登場するときぐらいであった。それでも、なぜコンビとして続けているのか? あるとき、えびはらが藤本に訊ねると、《藤子不二雄は「2人のチーム名」なんだ!》との答えが返ってきた。すなわち、マンガ家を続けていると打ち合わせや接待、雑誌・テレビのインタビューなど、マンガを描く以外の仕事がどんどん増えていく。しかし、それら一切を安孫子が引き受けてくれるおかげで、自分は執筆に専念できるというのだ(『藤子スタジオアシスタント日記 まいっちんぐマンガ道 名作秘話編』)。事実、藤本が人付き合いが苦手だったのに対し、安孫子は社交的で交友関係も広かった。それゆえ藤子不二雄のいわば“渉外担当”としてマンガ以外の仕事を一手に任されたのである。

二人はさまざまな点で対照的だった。藤本が原稿に取りかかる前には必ず「ネーム」と呼ばれるラフを描いていたのに対し、安孫子はネームなしでそのまま原稿に着手した。かつては彼もネームを切っていたが、60年代の「オバケのQ太郎」のヒット以降、多くの連載を抱えるうち、それでは間に合わなくなってきた。そこで《バッと原稿用紙にコマを描いて、先のことは自分でも分からないという、ある意味、即興的な描き方にな》ったという(『78歳 いまだ まんが道を…』)。

日々のスケジュールも、藤本が毎朝同じ時間に出勤するのに対し、安孫子は仕事場に来る日もあれば来ない日もある。早朝からゴルフに出かけたり、夜は飲んだり麻雀などの付き合いも多かったからだ。それでも仕事はきちんとこなしていた。

そんな安孫子のモットーは「明日にのばせることを今日するな」であった。これは戦後まもない頃に観た米英合作映画『アフリカの女王』での名優ハンフリー・ボガードのセリフだという。戦時中、学校の軍事教練で教官から「明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」という歌を繰り返し聞かされていた安孫子は、このセリフにアメリカ人の余裕を感じて衝撃を受けた。以来、《どんなピンチの時にでも、この言葉をとなえると不思議にスーッと気持が軽くな》ったという(『本』2002年4月号)。

多忙のなかでもいつもこのセリフを胸に、締め切りのあいまを縫って遊びまわっていたのだろう。そこにこそ安孫子がさまざまなジャンルの作品を描くことができた理由があるのかもしれない。ここで、藤本の出会いからさかのぼって、彼の“まんが道”をたどってみたい。

新聞社勤務が社交性を育む

安孫子素雄は1934年3月、現在の富山県氷見市に生まれた。実家は曹洞宗の寺院だが、戦時中の1944年、住職だった父親が急逝する。これを機に同じ県内の高岡市に引っ越し、定塚国民学校(現・小学校)に転校した。そこで出会ったのが藤本弘(1933年12月生まれ)だった。二人はお互いにマンガを描いていると知って仲良くなる。やがて富山でも空襲が増え、安孫子は母と弟とともに県内の山崎村(現・朝日町)に疎開したが、戦争が終わるとまた高岡に戻り、藤本とも再会する。

安孫子たちは旧制中学に入学した最後の世代にあたる。終戦の翌年の1946年に安孫子は旧制高岡中学、藤本は高岡工芸専門学校中等部(いずれも県立)に入学するが、48年に旧制中学は新制高校へ移行、52年3月に二人が卒業した学校はそれぞれ高岡中部高校(現・高岡高校)、高岡工芸高校となっていた。両校は校舎が隣り合わせで、また1年半ほど統合された時期もあり、在学中は毎日のように一緒に登下校した。

彼らが手塚治虫の長編マンガ『新宝島』(酒井七馬原作)と出会ったのは、中学時代の1947年だった。書店でたまたま見つけたその本を読み、ストーリーもコマの構成もまるで映画のようだと衝撃を受けたことが、二人の人生を決定づける。それからというもの手塚の単行本が出るたび一緒に模写しては、そのタッチを習得する。おかげで彼らは合作しても、微妙な違いこそあれ絵柄に統一感を持たせられた。

手塚治虫に憧れた二人は、手塚が『毎日小学生新聞』(当時は『少国民新聞』)で4コママンガ「マアチャンの日記帳」でデビューしたのにならい、自分たちも同紙に投稿して高校3年生だった1951年にデビューを果たす。その作品が「天使の玉ちゃん」で、このときは「あびこもとお ふじもとひろし」と本名を用いた。その後、雑誌に投稿を続けるなかで手塚にあやかって「手塚不二雄」とペンネームをつけ、本格的な雑誌デビュー作「西部のどこかで」(1952年)では「足塚不二雄」を名乗った。1953年に出版された長編『UTOPIA 最後の世界大戦』も足塚名義である。だが、同年に少年誌に発表した「旋風都市」で藤子不二雄と改名する。

この間、安孫子は高校を卒業すると、母方の伯父が重役を務める富山新聞に就職していた。社内では絵が描けると重宝され、各部よりカットの仕事が殺到する。社会部からは絵と文章によるルポの仕事を頼まれた。もともと人と話すのは苦手だったが、取材に慣れてくるとがぜん人と会うのが楽しくなってくる。後年の社交的な性格はここで培われたらしい。1年半あまり勤めるうちにすっかり仕事に充実感を抱くようになっていた。そんな折、藤本から東京に出ようと切り出される。彼も高校卒業後一旦は就職したが、すぐに辞めてしまい、自宅でこつこつマンガを描き続けていた。安孫子はこの申し出に正直、断りたくて返事を保留する。しかし、反対してくれると思っていた母親に相談すると「あんたの好きなようにしられ(しなさい)」とだけ言われた。悩んだ末、夢に賭けてみようと、会社を辞めて上京を決意する。

1954年6月に上京し、両国にある安孫子の親戚宅の二畳間を経て、豊島区のトキワ荘へ引っ越したのはその年の11月である。二人が手塚治虫と入れ替わりで入居し、先輩である寺田ヒロオ、あとから入居してきた鈴木伸一(藤本と安孫子いずれの作品にも登場する「小池さん」のモデル)や石森(のちに石ノ森)章太郎、赤塚不二夫、新宿にある実家から通い詰めたつのだじろうなど、同年代のマンガ家仲間とこのアパートですごした駆け出し時代は、安孫子の自伝的作品「まんが道」などを通じてよく知られる。

「黒い藤子」と呼ばれて

藤子不二雄の両者の作品リストを見ると、じつはトキワ荘に入居した頃より、それぞれ作品を手がけることも増え、互いの志向の違いが表れつつあった。

小学館の『週刊少年サンデー』に1959年の創刊号から連載された「海の王子」は二人の合作だが、マンガ評論家の米沢嘉博は幼少時にリアルタイムで読んでいて、藤子不二雄という作家のなかに二つの側面があると子供ながらに気づいたという。いわく、作中の善玉側と敵側それぞれのキャラクターやメカのスタイルの違いは、《白っぽさと黒っぽさとして強い印象を与えた。[引用者注:主人公の王子の乗る]はやぶさ号のすっきりとした流線形のメカに対して、銅や鋼鉄の黒っぽくも有機的な敵方のメカには、一人の作家の描き分けというには、あまりにも違う匂いがあったのだ》(『藤子不二雄論』)。このうち白っぽい部分を藤本、黒っぽい部分を安孫子が担当していた。のちにファンのあいだで言われた「白い藤子」と「黒い藤子」は、作品の内容以前に絵柄の違いに端を発したのである。ただし、藤子不二雄がコンビだということは、この時点ではまだ世間にはほとんど知られていなかった。

「海の王子」の連載が終了した1961年、安孫子と藤本はトキワ荘を出た。これにあわせて川崎市にある100坪の土地を共同購入し、分割してそれぞれの家を建てた。藤本はこの頃より幼児~小学生向けの学習雑誌を主な舞台として、のちの「ドラえもん」につながるSFコメディを中心に連載する。1963年に藤子不二雄が小学館漫画賞を受賞した「すすめロボケット」「てぶくろてっちゃん」はいずれも藤本作品である。これに対して安孫子は、江戸川乱歩原作の探偵怪奇もの「怪人二十面相」や、「シルバー・クロス」「ビッグ・1(ワン)」といった冒険活劇を少年向けの週刊誌や月刊誌に連載する。

やはり1963年、アニメーターとなっていた鈴木伸一の呼びかけでトキワ荘の仲間たちが再結集し、アニメーション制作会社「スタジオ・ゼロ」が設立された。ただ、アニメはすぐにはお金にはならない。そこで藤本の提案で、ちょうど藤子不二雄が『少年サンデー』より新たに依頼された連載マンガを、スタジオ・ゼロの面々にも協力してもらって執筆し、その原稿料を会社の資金に充てることにする。

安孫子と藤本は川崎に転居してからしばらくは自宅で原稿を描いていたが、この会社の設立を機に都内にも仕事場を持ち、電車で通勤するようになる。新連載のアイデアを練ったのも通勤中の小田急線の車内で、すでに登場させると決めていたオバケを人間の世界に定着させるか、それとも放浪させるかを話し合ったという(藤子・F・不二雄「スタジオ ボロ物語」)。結果、前者を採用し、オバケが両親と子供二人の中流のサラリーマン家庭に住み着くという設定が生まれた。

こうして翌1964年、連載がスタートしたのが「オバケのQ太郎」である。連載時の名義は「藤子不二雄とスタジオ・ゼロ」で、主人公となる少年・正太を安孫子、Q太郎は藤本、さらにガキ大将のゴジラなど周囲の人物を石森章太郎という具合にキャラクターごとに分担した。連載は9回で一旦終了するものの、終わった途端に読者から「なぜやめたのか」というハガキが殺到し、すぐさま再開。1965年にはテレビアニメとなり、オバQブームが巻き起こる。これを受けてその後も藤本の「パーマン」「ウメ星デンカ」、安孫子の「怪物くん」「忍者ハットリくん」などが次々とテレビ化された(「ハットリくん」のみ実写化)。いずれも「オバQ」と同じく主人公の少年が異世界から来たキャラクターと出会ったり、不思議な力を身につけたりすることで日常のなかで非日常的な体験をするというパターンの作品だ。

安孫子はこのパターンを大人向けのマンガにも取り入れたうえ、ブラックユーモアをまぶすことで新境地を拓く。1968年、創刊まもない小学館の青年コミック誌『ビッグコミック』に読み切りで発表された「黒イせぇるすまん」がそれだ。黒いスーツにエビス顔のセールスマンが、欲求不満を抱く人々の心に取り入り、ひととき夢を見させるという同作は、翌1969年からは実業之日本社の『週刊漫画サンデー』で不定期連載された(同時にタイトルの「イ」が「ィ」と小さくなる)。のちには「笑ゥせぇるすまん」と改題のうえテレビアニメとなり、新たに雑誌で連載もされた。

60年代後半、終戦直後に生まれたベビーブーム世代の成長にともないマンガ読者の年齢層も上がっていく。『ビッグコミック』はそんな時代の変化を受けて創刊され、子供マンガ出身の作家たちにも少年誌では描けないような題材で描く機会を与えた。安孫子としても子供マンガがだんだん苦痛になっていた時期で、原稿を依頼されるとすぐに飛びついた。

大人向けマンガに活路を見出した安孫子は、ギャンブルや海外旅行など遊びの経験も反映しながら守備範囲をどんどん広げていった。1970~71年に『週刊漫画サンデー』で連載した「劇画 毛沢東伝」も彼のエポックとなった作品のひとつだ。タイトルのとおり、毛沢東が中華人民共和国を建国するまでの半生を、長征と呼ばれる毛率いる紅軍(中国共産党軍)の大行軍をクライマックスとして描いた実録長編である。シリアスな題材に合わせて絵柄もガラリと変えようと、新たな手法をどしどし取り入れた。たとえば、写真をコピーしてコントラストを上げた画像(中間色が飛んで白と黒に分かれる)をマンガのコマに収め、周りを黒枠で囲んで迫力を出す手法などは、ブラックユーモアものでも多用されるようになる。

70年代に入ると少年誌でも、いじめられっ子がいじめっ子に復讐する「魔太郎がくる!!」や野生児がゴルフで賞金を稼ぐ「プロゴルファー猿」など、「オバQ」以来の路線とは一線を画す作品を送り出した。後者は、安孫子がその少し前よりゴルフに熱中していたことから生まれた。野球マンガの全盛期だった当時の少年誌では異色の作品である。

異色といえば、講談社の『週刊少年マガジン』で1978~79年に連載した「少年時代」もそうである。これは芥川賞作家・柏原兵三が戦時中の疎開体験をもとに書いた自伝的小説『長い道』をマンガ化したものだ。

もともと柏原の小説を愛読していた安孫子は、『長い道』を読み、同い年の彼が終戦までの1年間疎開した父親の郷里の漁村が、自分の疎開先とさほど離れていないことに気づき、この作品にひときわ惹かれたという(『@ll 藤子不二雄A』)。とはいえ、当時の少年誌の読者層からすれば親世代の疎開体験をもとにした同作はかなりの冒険であったはずだ。実際、連載中は読者から一切反応がなく、安孫子自ら編集部に申し訳ないと打ち切りを申し出たほどだった。だが、無事に最終回を迎えたあと、感動を伝える手紙が続々と舞い込むことになる。

「少年時代」では、そのタイトルから浮かぶノスタルジックなイメージに反し、子供の残酷さやずるさ、主人公の少年がクラス内の人間関係に葛藤するさまがこれでもかとばかりに描かれた。それらはたとえ世代が違っても誰もが経験することであり、読者もそこに強く共感したのだろう。

コンビ解消後、長年の夢だった映画に進出

じつは安孫子は、30代に入って子供マンガを描くのが苦痛になり始めた頃、引退が頭をよぎったことがあるという。後年、当時を振り返って次のように明かしている。

《藤本氏の「ドラえもん」の人気が爆発したころ、このままだと、藤本氏のマネージャーかアシスタントをやるしかないのでは、と思ったこともありました。誰にも言わなかったけど、非常に悩んでいた。そこに「黒ィせぇるすまん」など青年誌のブラックユーモア路線がドーンとヒットした。少年漫画だけ続けていたら、たぶん三十代で漫画家としてはダメになっていたでしょう。本当にマネージャーになっていたかも知れません》(『78歳 いまだ まんが道を…』)

もっとも、「『ドラえもん』の人気が爆発した」のは、実際には安孫子の記憶よりもう少しあと、1979年のテレビアニメ化の前後である。じつはそこにいたるまでには、藤本も苦難の連続であった。「オバQ」ブーム後はしばらく同作を上回るヒットに恵まれなかった。1969年の暮れより小学館の学習誌でスタートした「ドラえもん」も自らの思い入れに反してなかなか人気が出ず、何度か連載が打ち切られそうになっている。同じく69年に『ビッグコミック』に発表した「ミノタウロスの皿」以降、大人向けのSF短編も手がけるようになっていたとはいえ、彼の本領はやはり子供マンガにあった。この点で、守備範囲の広い安孫子より乗り越えるべき壁は高かったといえる。しかし、藤本はいままでどおり地道に創作に専念することで危機を乗り切る。それは、彼自身が認めていたとおり、やはり安孫子が外部とのやりとりを担ってくれたおかげでもあるのだろう。

80年代には「ドラえもん」の大ヒットを受けて、「怪物くん」や「プロゴルファー猿」など安孫子の作品も続々とアニメ化され、子供たちの心をつかんだ。中央公論社(現・中央公論新社)からは二人の全集である「藤子不二雄ランド」全301巻が刊行され、「マンガの神様」手塚治虫に対し藤子不二雄は「マンガの王様」と称された。1970年より掲載誌を転々としながら描き続けられた前出の「まんが道」はこの頃テレビドラマにもなり、トキワ荘の物語の伝説化に一役を買うことになる。

だが、1988年、二人はコンビを解消した。話を切り出したのは藤本で、前年のある夜、安孫子の家に来ると突然「別れよう」と告げたという。これに安孫子は驚き、「ちょっと考えさせてくれ」と返事をしたが、彼が一度決めたら翻意しないのはわかっていた。高校時代にデビューして30年あまりが経ち、すでに50代も半ばで、マンガ家としてはあまり先がない。それなら今後はそれぞれ好きな道を行こうかと決心し、後日、藤本に電話で「じゃあ、そうしよう」と伝えたという。

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この連載について

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一故人

近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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ShiraogawaTooru https://t.co/E6zn7j95io 物語粗筋→ https://t.co/Lz20ff0e4v ↑人間の出産も、夢幻と同じ、… https://t.co/jzean1LOWo 約2ヶ月前 replyretweetfavorite

yomoyomo cakesの最期はやはり近藤さんのこの連載だよな 約2ヶ月前 replyretweetfavorite

Okcm_Tpop https://t.co/FBu9giPpwc 約2ヶ月前 replyretweetfavorite