「ええ、もちろん」
クールに返事をするも、おれは自分の胸の鼓動が大きくなっていくのを感じた。これは私服の彼女が、さっきまでにも増して魅力的に見えるからか? いや、違う。たぶん彼女がこれから話そうとしている何かに、おれは反応し、緊張しはじめている。
おれたちは少し歩き、待合室と塔の間、本堂の前あたりまでやってきた。
どうやら彼女はわざわざおれの『旅立ちの儀』が終わるのを待っていたようだった。おれがイケメンで、青春まっしぐらの中高生なら、まさか告白!? なんて、呑気に考えたかもしれない。
「ちゃんとご挨拶する機会もなく、私、本名、夏目といいます」
そう言って彼女は笑顔を浮かべる。
「ご丁寧に。私は竹中です」
「あっ、やっぱり。カンバルさんがリストで読み上げた、"たけなか たかし" って "たけし" さんのことだったんですね」
嬉しそうに微笑む夏目さん。バレていたのか。まあ、当然か。あの時おれは思わず立ち上がったから。
「ええ。困ったやつです。あいつは」
おれは苦笑する。
「……実は、『智慧の儀』の時に、言いそびれてしまった事があるんです」
そう言いながら、彼女は自分のハンドバックからブックカバーをつけた本を取り出す。
ふむ。見覚えがある。確か『懺悔の門』が始まる前、彼女が待合室で読んでいた本である。
次に彼女はブックカバーを外し、「見てください」と言って本を差し出した。
カバーを取り始めたあたりから、多少予想はしていたが、それでもびっくりする。表紙が濃い緑色の薄い文庫本。そのタイトルには、『地下街の人びと』と書いてあった。
これは一体どういうことなのか? おれは無言で考え込む。遠くで聞こえる鳥たちの声が、2人の間の沈黙を埋めていた。
「ちょうど3日前、タイトルに惹かれてこの本を買ったんです」
しばらくあって、彼女は言った。
「……なるほど。だからあの時反応したんですね。すごい偶然、いや……これは偶然という名の必然なのでしょうか」
彼女の場合は? とおれは思う。亮潤様と一体何を話したのだろうか。
「でも、そもそも私がこの本のタイトルに惹かれたのには、理由があるんです」
重要なのはここからです。彼女はそう言いたげだった。
「ええ」
「先ほど話した私のバイトの話ですが、私が雇われていた組織、その名前を『地下街の人びと』といったんです」
「……」
なんてことはない。組織の主催者が、たまたまケルアックを好きだった。それだけのことだろう。それ以上でもそれ以下でもない。しかし─────そもそも、あの小説に出てくる人びとは、なぜ、「地下街の人びと」と呼ばれていたんだっけ?─────おれは主題から逃げ、どうでもいいことを考える。何度目か、ひどく頭がクラクラするのは、絶対に酸欠のせいではない。
「先ほども言いましたが、私、文学には疎くて。だからその名前が、小説のタイトルからとってつけた名前だって知らなかったんです……」
「名前をつけた人がケルアックを好きだったのかな……」
自分でもつまらないこと言うものだと思いながらも、おれはそう口にする。
「ええ、そうかもしれません……ただ、もう一つ……『地下街の人びと』の代表を務めていた人物の名前なんですが……」
そこで彼女は一呼吸置いた。