我が家のぬか漬け。自家製だとこんなにドカンと食べられる。おなかも心も一杯です
美しいレシピ本、あるいは動画サイトなどを見て、あーこれ美味しそう! これも食べてみたい! と、毎日違う世界のゴチソウやら、無限ナントカやら、時短料理やらなんやらを作って食卓にズラズラ並べる——それはもはや現代日本の一般家庭の「ごく当たり前の姿」であります。
っていうか、それはもはや当たり前すぎて、そうじゃない食生活を送ることなど、もうこれっぽっちも想像すらしたこともない人がほとんどなんじゃないでしょうか? 何しろ前回も書いたように、私、諸般の事情により台所の大断捨離をせざるをえなくなりまして、その結果、来る日も来る日も「メシ・汁・漬け物」という江戸時代の貧乏長屋のような粗食を、振り返ってみればかれこれ6年以上1年365日食べて生きているわけですが、それを何かの拍子に人様に話すとですね、すごい勢いでドン引きされるわけです。驚かれるという段階をはるかに通り越し、皆様どこぞの宇宙人あるいは不審者でも見るような目つき……ということを、この6年間何度繰り返してきたことか!
それほどまでに、それは現代のほとんどの人にとって「ありえない」ことなのだろう。
なぜ「ありえない」のかといえば、ほぼ100%返ってくるセリフを聞けばわかる。
「それって……飽きません?」
うん。わかりますよ! 確かに、もし飽きてしまうとすれば考えただけで辛そうだ。もちろん飽きたとて餓死などするわけではないが、だからと言ってドウデモいい問題かというと、もう全くそんなことはない。だって辛いことばかりがはびこるこの世の中で、日々美味しいもの、好きなものを食べることは万人に残された数少ない希望なのだ。それを、餓死しない程度の最低限のものだけをボソボソ食べて生き続けるなど、まるで何かの刑罰のようではないか。そんなこと、できるわけない。っていうか絶対やりたくない! ‥‥‥と考えるのが普通でありましょう。
無論、私とてそう思ったわけで、その恐ろしい現実に直面した時はあまりのことに超高速で頭を回転させ、うん、そうだよ、ウンウン、考えてみれば何もこれまでのように毎日ご馳走を食べなくたって良いではないか、物事には「ハレ」と「ケ」というものがある。毎日の食事は「ケ」で良いのだ。つまりは私は決してご馳走を諦めるわけじゃない! ただハレとケを分けるだけ! ハレの食事がしたければ、つまりはご馳走が食べたければプロが作ったものをお金を出して食べに行けば良い。だから全然大丈夫! ——という理屈をひねり出し、どうにか自分を納得させたというのは前回書いたとおりである。
で、どうなったのか? という話であります。
果たして私は本当に納得できたのか? このやや「無理やり感」のある作戦は、果たして成功したのかどうか……? 結論から申し上げる。
それは、予想もしていなかったほどの大成功を収めたのだ。
ということで、今回はその意外なる結果と、なぜそんなことになったのかの考察を縷々書きたいと思う。
「メシ・汁・漬物」というご馳走
まず最初に起きたことは、毎日の「ケ」の食事が、いざやってみたらですね、驚いたことに、飽きるどころか、逆に「おおっ」という楽しみの連続で満たされ始めたということである。
どういうことかというと、献立が地味すぎるがゆえに、ちょっとしたことが全部「ごちそう」になったのだ。わざわざ外食まで行かずとも、この「メシ・汁・漬物」に一品を加えると、それだけで「おおっ」となるのである。
で、この一品っていうのがですね、ビーフステーキとかそういうことじゃなくて、ノリ、とか、納豆、とか、大根おろし、とか、そういうものなのですよ。そんなものが全部「ハレ」。よく考えればそれも当たり前で、「空腹は最大の調味料」って言葉があるが要するにそういう類のことなのであろう。毎日春巻だラザーニャだタイカレーだ鳥のカラアゲだエビフライだとめくるめくご馳走が日々取っ替え引っ替え食卓に並んでいれば、そりゃノリが出てきたって何とも思わないでしょうが、っていうかノリなんぞ地味すぎて出番すらないでしょうが、毎日おかずは「漬物」とくりゃ、ノリなんて出てきた日にゃあ、あらまあ、なにこの鼻の穴が膨らみまくるような香りは? なにこのいい感じのパリパリ? なにこのご飯との絶妙のマッチング……? っとひっくり返るほどの感動を生むのである。
こうなってくると、肉屋で買うコロッケとか、豆腐屋で買うがんもどきなんてことになれば、もう異次元のお祭り騒ぎってことになる。
つまりはですね、私、当初は単に、これからは「ケ」と「ハレ」を分けるのだと考えれば「ケ」の地味な食生活も耐えられるはずなどと思っていたんだが、そんなことじゃなかったんである。「ケ」こそが「ハレ」を生むのだ。「ケ」なくして「ハレ」なし。これまでは毎日がハレだったので、ハレはハレでもなんでもなかった。単なる当たり前として日常に埋もれていた。それが、日常の中に「ケ」を作り出したことで、高価でもなんでもない世間のフツウの食べ物が、そして自分の中でもまるっきり軽視あるいは無視ししていた食べ物が、次々と私の中で絶大なる「ハレ」の食べ物と化したのだ。
なんでもゴチソウ、なんでもアリガタイ。
いや……ある意味めちゃくちゃお得ではないか! さらにこうなってくると、これまでは様々な情報を集めては電車に乗って遠いレストランなどにいそいそと出かけて「美味しいもの」にありつこうと絶えず努力し続けてきたわけですが、そんな必要も無くなってしまった。何しろノリでコーフンしている身。となれば、歩いて2分の町中華で食べるギョーザなんぞ食べた日にゃあ、その思い出を胸に半年は生きていけるほどの満足感である。というわけであまりに嬉しそうにギョーザを食べるので、すっかり町中華のおっちゃんに気に入られてしまい、おっちゃんにニコニコと見守られながらハフハフとギョーザを頬張っていると、いやいやこれ以上の「美味しいもの」なんてあるだろうかと……いや、あったところでどーでもエエわという気持ちが心の底から湧き上がってくるのをどうすることもできない。
それもこれも「ケ」のおかげだ。ケが貧しいほどにハレが輝き、輝きが強すぎると目も眩んで小さな差などどうでもよくなる。もっともっと美味しいものがあるはず! なんて未知のものを夢見る必要なんていつの間にかすっかりなくなってしまった。
で、それだけでも私としては大革命だったんだが、なんとコトはそれだけじゃあ終わらなかったんである。