「追い詰めるのが普通」だったのは
「彼は最後まで文学者だった」とまとめられる記事や映像をいくつか見た。政治家でもあり文学者でもあった、でも、最後まで文学者だった……という。決して嘘ではないのだろうが、政治家としての言動で多くの人を痛めつけた加害性を覆い隠すように「文学者だった」という言葉を機能させているのだとしたら、あまりにも問題が大きいと思う。
「政治的に思想が異なる人が亡くなっても、亡くなった時くらい素直に追悼してやれ、って思うけど左翼の人は追い詰めるのが普通みたい」と堀江貴文がツイートしていたが、「政治的に思想が異なる」からではなく、とにかくずっと、声をあげにくい人たちを大きな声で潰してきた事実を抜きに語ってはいけない、と考えている。石原こそ、どんな場面でも「追い詰めるのが普通」だったからこそ、やっぱりそれを伝えなければいけない。
「追悼してやれ」という暴力性
「女性が生殖能力を失っても生きているってのは、無駄で罪だそう」「ゲイのパレード、見ていて本当に気の毒だと思った。どこかやっぱり足りない感じ」「(障害者施設を視察して)ああいう人ってのは人格があるのかね」「東京では不法入国した多くの三国人、外国人が凶悪な犯罪を繰り返している。大きな災害が起きたときには、騒擾事件すら想定される」……こういった言葉を繰り返し述べてきた。
頭の中にある差別意識を、自らの権威に頼りながら吐き出せば、ひとまず問題視されるものの、仲間やメディアが「毎度の失言。まぁ、それが彼だから」的な感じで処理してくれる。でも、それぞれの発言で指をさされた側は、さされた経験をずっと抱える。「素直に追悼してやれ」と聞けばそっちのほうが人道的にも思えるのだが、その「追悼してやれ」だけでは暴力性を持つ。それほど、乱暴な発言だらけだった。