蘭ちゃんへ
こんにちは!
感染者数が減り、徐々に人と会えるようになってきて、街にいる人たちの顔も心なしかリラックスして見えます。
画面越しに話をするのとはちがう、会って話すことのうれしさとキャッチする情報量の多さを、実際に人に会うことで毎回新鮮に思い出すね。やっぱりずっと人に会えない状況は普通ではなく、不自然に我慢していたんだなあと実感します。
とはいえ、もう長いこと「普通」が逆転していたので、反動で疲れてしまうというのもあります。徐々に、ぼちぼち、いきましょう。
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蘭ちゃんの人生はマラソン設定、わたしのピクニック設定、さらにはひとりひとつの小舟に乗っている設定の話をしたの、おもしろかったね。
この「設定」というの、たしかにわたしはよく使います。これは、「わたしっていつもこうなっちゃうんだよね」のような、もともとそういうもので、どうにも変えられないかのような考え方を、「自分がそういう設定をしているのだ」と考えることで、いいことがたくさんあったからです。
出来事そのものを見つめるよりも、捉え方次第で「あ、自分の設定か」と思えると、自分の都合や好みで変更ができます。
わたしは、数年前に大きな設定変更をしました。
整理整頓のため、過去の出来事や思いを文章にして眺めてみたときに、自分の選択や考え方のクセを発見しました。まず、とにかくたくさんガマンをしていることに気がつきました。子どもの頃の環境でついてしまったクセなので、それ自体は仕方がないと思えるのだけど、大人になっても「自分はガマンしないといけない存在だ」と思い込んだままだったのです。ガマンが必要な環境ではあったものの、その問題以外のすべてにおいてもガマンするクセがついていました。今思うと、それは「自分はガマンするべきだ」という「設定」でした。
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この人は素敵だなと思う人は、みんな素直でした。そして、自分には素直さが欠けていると自覚していました。「素直な人はいいなあ(自分はそうではない)」という捉え方でした。でも、「自分はガマンすべきだ」という設定に気がついたら、自分が「素直であること」よりも「ガマン強いこと」を優先していただけなのだとわかり、戦慄しました。
素直な人とそうじゃない人がいるのではなくて、素直さを優先するかどうかは設定次第なのだと思うと、それなら設定を変えて、ガマンすることに使っていた努力を、素直になることに使えばいいのか!と、視点がぐるりと回転したのです。