「経験者のみ」の壁
手応えはあったような、ないような。恵比寿から渋谷まで明治通りを歩いて面接会場を後にした。結果はメールで送られてくるらしい。
学生時代からよく読んでいたWebメディアに転職しようと思い、門を叩いた。転職はポジティブなリセットボタンだ。目の前の毎日はクソだが、あそこに座席が用意された暁には、毎日が楽しくなるに違いない。
オフィスは恵比寿駅から徒歩5分ほど。明治通り沿いのビルに構えたオフィスは、会議室が小屋仕立てになっていたし、カラフルな小物で彩られていて、いかにもクリエイティブな雰囲気が漂っていた。
当時、私は通信会社のいわゆる営業マンだった。正確に言うと、入社して1年半ほどで過労によって適応障害を起こしてしまい、休職中の身だった。
もともとインドアな性格なのに、THE体育会系の職場で浮くのは当然だった。「目標必達」というスローガンのもと、社内政治と営業実績に追われていたなかで、映画やら音楽やらにすがって生きていた。大げさに聞こえるだろうが、文化的なものに触れているときにだけしっかり呼吸ができていた。
休職してからしばらくして、私はいそいそと転職活動を始めていた。この際、アルバイトでもいいから好きな業界で働こう。ゴリゴリの営業職ではなくて、もっとクリエイティブな…そう、メディアとか。広告やテレビ、雑誌、映像業界。いろいろな選択肢がある中で、ようやくピンと来たのがWebメディアだった。だって一番身近にあるものだから。
そこで自分が普段愛読しているメディアの採用情報を漁ると、思いのほか募集があった。でも、じっくり募集要項を見てみると、すぐに壁にぶち当たった。
「編集者:経験者のみ」「ライター:執筆経験あり」
なるほどそうだよね。すぐに納得できてしまう自分がいた。必要なのは即戦力であり、すぐに結果を出せる人材である。どのメディアを見ても求められるのは「経験あり」の人物だった。
編集とか執筆の経験ってどこでつめるんだよ。私はその経験ができる世界に行きたいのに、行くことすらできないのかよ。そんな風に悪態をつきながら丁寧に採用枠を見ていると「ECサイトの運営」という文字が飛び込んできた。そのメディアは、記事を配信するだけでなく、アクセサリーや雑貨を取り扱うECサイトも運営しており、そこの管理者を募集していたのだ。募集要項には「経験者のみ」の文字はない。
いけるのでは…? 甘い考えが頭に浮かんだ。幸い、営業職なのでExcelは使えるし、数値管理もできる。何より、そのサイトの熱心なユーザーだという自負があった。
履歴書を送ったところ、すぐに面接が決まった。
使える人間だとアピールしなくては
面接は就職活動中に嫌というほどこなしてきたので自信があった。質問には思ったことをストレートに答えるのではなく、意図を汲み取って、相手が望むような答えを言う。例えば自己紹介をするときは「私はAという経験がありBという能力を持っているので、入社したら役に立てる」というメッセージを伝えれば良い。
この戦略が功を奏したのか、一次面接は無事クリア。次はいきなり社長面接らしい。パスすれば内定である。そういえば映画「モテキ」では、森山未來演じる主人公・幸世が、ニートから突然Webメディアで働きだしていた。自分も幸世のように一発逆転的に転生できてしまうのではないか。
面接用の会議室に現れたのは、まだ若く精悍な顔立ちの社長だった。「大学時代からこのメディアをやっていまして…」という自己紹介に、組織の長としての凄みを感じる。自分と同い年のときにすでに社長だったのか…と思うと、気後れした。でも、面接は就活のときみたいな針のような緊張感はないし、社長は私の発言にも「いいですね」「おもしろい」と丁寧に相槌をうってくれた。いい感じだ。すべてうまく行っている。気持ちが高ぶって変なことを言わないよう「使える人間ってことをアピールしなくては」と頭の中で復唱しながら質疑応答をこなした。ハキハキと受け答えをしていると、社長はぽつりとこう言った。
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