騎士のような語り口や宮廷風の筆使いなど、豊子はその場を生きてきたかのように使い分け、物語に命を吹きこんだ。日本語の概念にはない「Waldeinsamkeit」も、保守派は「森の如き場所に独り取り残されたかの如き孤独」と注釈を付けて訳したが、豊子は状況に応じて「私を分かってくれる人は誰ひとりいない」「分かろうとしてくれる人だっていない」「笑ってみせているけれども心はひとりぼっち」「ひとりぼっちでいればいるほど、心には寂しさよりも静かさが満ちてくる」と、原作者の心を読み解きながら日本の読者に届けた。こうした積み重ねを続ける豊子には依頼が舞いこみ、
やがて日本の独逸学協会が、日本の古典籍を蒐集するプロイセン貴族に豊子の訳書を紹介した。その貴族は訳書をサロンで紹介し、プロイセンの大手新聞社の知るところとなった。クリスマスの新聞紙面には豊子を取材した記事が掲載された。これまでの日々を感謝とともに振り返り、女学校を設立して自分にしか教えられないことを伝えたいと語る写真のなかの豊子は、コルセットなしで服を着て大きな書棚を背にし、タイプライターや分厚い辞典を置いた広い机に向かっていた。その記事の隣には、ゲルマン神話の精神性を説くリヒャルトの寄稿が掲載されていた。
この取材がきっかけとなり、豊子はPreußen Tagebuch(プロイセン日記)と題した新聞連載を始めることになった。異郷の地で見る「月」への考察を、かぐや姫を紹介する形で書いた随筆は反響を呼び、以降、当初の二倍の記事欄を与えられた。教え子に場所を譲る結果となった「ゲルマン神話精神論」は、紙面の片隅に縮こまるようにして掲載されるだけとなった。
「公使夫人はご機嫌斜めでしてよ」
豊子の部屋で復活祭の菓子をつまみながら、
「私もいい迷惑ですわ。あなたの訳を持ち帰らないとお給金がいただけないんですもの」
相沢郷はこれ見よがしにあくびをしてみせ、豊子は机に向かったまま笑みを浮かべる。