男性基準でねじ曲げられた物語を取り戻せ―『舞姫』5

物語の神は言った、「男が中心に存在してこそ正しい物語である」と。そんな神の支配する世界に生きる内気な姫さよが次に飛ばされた物語の世界は、『舞姫』。女性初のドイツ留学を叶えたものの、取り下げになってしまう。異国の地に居続けなくてはならなくなった彼女に待ち受けていた仕事は、海外小説の翻訳の仕事だった。河出書房新社から好評発売中、雀野日名子さんの痛快エンタメ小説をお届け。(提供元:河出書房新社)

八月最後の日の昼下がり。豊子とよこはベルリン駅で列車を待っていた。心躍らせて来たこの道をこういう形で引き返すことになるなんて、一年前は想像もしていなかった。

フランクル一家との形式的な別れの挨拶が、この地で交流した人との最後の会話となった。一家の子どもたちと遊んだときのドイツ語。リヒャルトと語り合ったときのドイツ語。彼の友人たち、ドリス、大学の教授たちと交わしたドイツ語。エリクのざっくばらんなドイツ語。だが豊子が最も恋しいのは相沢郷の日本語だった。異郷で耳にする貴重な母国語だったからではなく、遠い昔から知る声だった気がするのだ。

軽く肩を叩かれて振り返る。閉じた日傘を手に、相沢郷あいざわごうが立っていた。

「行き違いになるところでしたわ。船にお乗りになってからでは間に合いませんもの」

相沢郷は鞄から封筒を取り出し「公使からですわ」と差し出す。留学継続の許しが出たのだろうか。豊子は急いで開封する。予想もしないことが書かれていた。

〈ホソダ セツ キュウシス〉

母の急死を知らせる、故国からの連絡だった。

「お悔やみを申しあげますわ。消印から逆算しますと、あなたの帰国決定をご存じないまま亡くなられたようね」

便箋を見つめていた豊子は、待合椅子に座りこむと手紙を額に押しつけた。

「墓前にどう報告すればいいのでしょう……」

「お墓はありませんわよ。あなたの故郷は先月、洪水で沈んでしまいましたの。家々も墓地も役場の戸籍帳も何もかも半永久的に泥の下。帰国なさってもあなたは幽霊でしかありませんわ」

にわかには信じられず、豊子はうつろに顔を上げる。

「公使にお会いできないでしょうか?」

「公使は同じことを二度はおっしゃらない方でしてよ。けれども官費留学生としての滞在はお認めにならないというだけですから、ご自身で今後をまかなえばすむことですわ」

「それは……母の望む生き方ではありません。あの世の母に顔向けできません」

「あなたはお母さまの人生の代行者なの?」

相沢郷は鍵盤に指を走らせるかのように、豊子の肩から手首までをたどった。

「仕事をご紹介しますわ。それまで私の部屋にお泊りになるとよろしくてよ」

相沢郷は待合椅子から立つと豊子の手を取り、駅出口へといざなった。

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かぐや姫、物語を書きかえろ!

雀野日名子
河出書房新社
2021-11-02

この連載について

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かぐや姫、物語を書きかえろ!

雀野日名子

物語の神は言った、「男が中心に存在してこそ“正しい物語”である」と。 そんな神の支配する『竹取物語』の世界に生きる内気な姫さよは、帝の后選びの場で勝気な姫ごうに出会う。自由を求め物語の神に反旗を翻した二人は、『源氏物語』から『平家...もっと読む

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