〖姫君、一人目の王子様と出会う〗
一ヶ月が過ぎた。
大学には女子寄宿舎がないので、豊子はフランクル夫妻宅に下宿している。お雇い外国人として来日したことがある化学教師の家庭だ。豊子は夫妻に頼まれて四人の子どもに読み聞かせをする。こうした絵本や児童書も女学校で使いたい。日本には、異国語は高尚な学問をする男子のものだという先入観がある。とんでもない。小さな子どもだって自在に使うものなのだ。
豊子は毎週、母に手紙を書く。コルセットに慣れないこと。下宿先の子どもたちが発音の先生になってくれること。学籍生と同じ小論文試験を受けてAを取ったこと。公使夫妻に仕える
「お茶の時間ですよ、トヨコ」
夫人が部屋をノックする。今日は家庭教師となってくれる人が来るのだ。ラテン語と歴史学を修めてギムナジウムで教鞭をとる、夫人の甥だ。
豊子は「すぐにまいります」と返事し、インク瓶の蓋を閉める。万年筆は手元にない。大学で本を筆写していたとき、森倫一郎たちに奪われたのだ。万年筆は男が使うもので、女はカラスの羽でじゅうぶんだと。取り返そうとした豊子は突き飛ばされ、足を擦りむいた。母が知れば豊子を叱るだろう。「細田豊子には到底勝てない」と畏怖させるだけの成績を出せずにいるから、なめられるのだと。
聴講生仲間のドリスが目撃し、風紀委員会に通報すべきだと憤った。彼女は職業画家を目指すベルリンっ子だ。美術学校では裸体デッサンを必須科目にしているが、女性は受講させてもらえない。だったらより専門的に人体を学んでやろうとあえて高い壁に挑み、女性美術家協会の支援を得て大学に門戸を開けさせた。だが留学生同士の揉めごとは留学生同士で解決せよというのが大学の方針で、万年筆は諦めなくてはならず、豊子は相沢郷に申し訳なかった──。
豊子は身支度を済ませ、居間に向かう。若い男性と談笑していた夫妻は、豊子に気づくと「甥のリヒャルトですよ」と紹介した。銀縁の眼鏡をかけた
リヒャルトは土曜の午後に時間を二時間ほど
博識なリヒャルトは豊子の知識欲を刺激し、質問が止まらなくなることもあった。
「ラテン語で『月』を意味する『mensis』が複数形になると月経を意味するなど、『月』は女性に強く関連する語ですのに、なぜドイツ語の『Mond(月)』は男性形なのでしょうか? 逆に『Sonne(太陽)』は女性形です。男性が満月と新月の夜に集会を行い、女性が太陽を崇めて儀式を行った古代ゲルマン文化と関連があるのでしょうか?」
「不確かな学説に
「そうなのですか。欧州では月の模様を女性に見立てることが多いようですが、ゲルマン文化では荷運びする男性に見立てているようです。そうした物の見方とも関連性があるのでしょうか」
「月の見え方との関連性は根拠がないので答えかねますが、あなたの発想はなかなか面白い」
対話は夕食時まで続いた。最初の挨拶とは異なる力強い握手をしてリヒャルトがフランクル家を後にすると、夫人は「あの子のあんな楽しそうな顔は見たことがないわ」と喜んだ。早くに両親と死別した彼は学問の世界に
リヒャルトは翌日も訪ねてきた。夫人は「約束のない日に女性を訪ねるのはマナー違反ですよ」とたしなめた。約束した文献を持ってきたのだと詫びたリヒャルトは、馬車の