〖姫君、海を渡る〗
蒸気船のデッキで辞書を読む
下級
「この国ではおなごに生まれた時点で生き方が決まってしまうのです。おまえをこの国から出してやりたい。母のような生き方はしてほしくありませぬ」
下級藩士の家に生まれた母は学問を深く愛したが、それを立身出世の武器にできるのは男性だけだった。それでも学問を信じる母は、自分が断念した道を一人娘に進ませた。だが当然のことながら派遣団への応募は門前払いされた。参加できるのは原則的に良家の男子なのだ。例外的に女子を参加させる場合は、婦女子教育に力を入れるアメリカにというのが新政府の方針だった。
すると豊子の母は夫の遺品の刀を携え、娘を連れて文部省の前に座りこみ、選考試験を受けさせねばこの場で娘と自害すると主張した。女性の生き方に進歩的な考え方を持つ福沢諭吉が手を差し伸べた。文部卿を説得して豊子に試験を受けさせたところ、ずば抜けて良い成績を出した。在プロイセン公使の知るところとなり、是非ともベルリンに来させよとのお達しが出たとなると、派遣団の名簿に加えないわけにもいかなかった。
出発の日、豊子の母は見送りせずに
「官費で学ぶことを日本のおなごに還元しなさい。この国のおなごに道を開きなさい」
豊子の目標は、貧しい子が素質を伸ばせる女学校を設立することだ。
芸術に興味を持つ女子の手助けもしたい。音楽の本場であるウィーンやベルリン、美術の中心地であるパリに女子が官費留学できるのはまだ先の話だろうが、現地の教師を招致して日本でも西洋芸術を学べる環境を整えたい。
異国語を理解できるようになりたいと漠然とした憧れを持つ女子も大歓迎だ。異国の書を訳者を介さずに読めるようになり、異人の考えを通詞なしで理解できるようになると新しい世界が広がる。その喜びを
ドンッと背中をぶつけられた拍子に、豊子は辞書を落とした。拾おうとすると革靴に手を踏みつけられた。「失敬」と薄笑いして去っていくのは同じ派遣団の森