おなごに生まれたくて生まれたわけではないわ―『仮名手本忠臣蔵』5

物語の神は言った、「男が中心に存在してこそ正しい物語である」と。そんな神の支配する世界に生きる内気な姫さよと、勝気な姫ごうは今度は『仮名手本忠臣蔵』の世界にいた。神社の力を借りた竹月院は本来の自分に目覚め始める。すると、「女だから」と我慢していた女たちも決起し始めるのであった。河出書房新社から好評発売中、雀野日名子さんの痛快エンタメ小説をお届け。(提供元:河出書房新社)

〖姫君さまのお目覚め〗


光陰寺の庭で武術修練に励む女たちは、かるが来たことに気づくと薙刀なぎなたや竹槍を下ろして一礼した。だが今日の軽は竹月院を連れており、女たちは冷ややかな表情になった。

「あらあら、あれでは不足でしたか?」

薙刀を持つりくが、さばさばと笑う。竹月院は軽の横に立ったまま何も答えない。様子が先日とは違うと察した女たちは顔を見合わせる。竹月院は女たちを見渡すと、視線を貞立尼ていりゅうにに移した。

「三十人ばかりのおなごが修錬したところで、百人近い護衛を持つ吉良きらには太刀打ちでけしまへん」

「言葉を慎みなされよっ」

竹槍を手にした堀部や奥田の大奥方たちが目を吊り上げる。

「われらは死など怖れておりませぬ。みなが斬り捨てられようとも、誰かひとりが吉良と刺し違えれば上出来じゃ。武家の出ではないそなたには分からぬこと」

「男はんのためにいかに美しく死ぬかなんて時代はもう終わりどす。いかに命を無駄にせずに勝つかを考えることこそこれからの武士やて、山鹿素行やまがそこう先生も説いてはります」

奥方たちのあいだから失笑が漂う。貞立尼は眉をひそめた。

「どこでかじったのかは知らぬが、山鹿先生は忠義こそ武士の心得と説かれた方ですぞ」

「死ぬことだけが義やないとも説いてはります。やみくもに命を捨てるんは勇やけど義とは違うて、『山鹿語類』の臣道の巻に書いてはります」

貞立尼は呆気にとられ、りくたちと顔を見合わせる。軽がきゃきゃっと笑った。

月媛つきひめ神社のご利益だよ! 姉さまは書を自在に読めるようになりたいと、池に身を投じて願掛けしたんだよ。このひと月ばかり、姉さまは凄まじく読みふけっておるよ」

竹月院は池に落ちたときのことをよく覚えていない。ただ、強烈に明るい満月を水中から仰いでいたことは記憶にある。何百枚もの願掛け紙から溶け出した文字が、体じゅうにしみこんでくるような感覚も。

竹月院が池で溺れた翌日、軽から頼まれたと言って書店が二百冊もの書を運びこんできた。平安期の歴史書や仏教書、鎌倉期の軍記物で、軽が『平家物語』の第一巻を差し出した。読めもしないのにと戸惑いながら広げた竹月院は息を呑んだ。複雑な漢字が難なく読める。意味もすんなりと分かる。竹月院は寝食も忘れて書に没頭した。書への飢えは止まらず、心と頭はどれだけでも文字を飲みこみ続けた。

『平家物語』を読んでいると不思議なことに、しづやしづと静御前が鶴岡八幡宮で舞う声が聞こえてきた。『平家物語』に静御前はほとんど登場せず、舞いの場面もなく、どんな声で歌ったかなど知るよしもないのに。そんな竹月院を軽は頬杖をついて眺めていた。

竹月院は、鳥がさえずる多羅葉たらようの樹を仰ぎ、白詩の『燕詩』を吟じる。

「一旦羽翼うよくなりて、引きいて庭木の枝に上る。つばさを挙げ回顧せずして、風にしたがい四散して飛ぶ。雌雄空中に鳴き、声尽くるまで呼べども帰らず」

りくの顔色がわずかに変わる。

「羽ばたけるようになったら勝手に飛んでいってしもて、どんだけ呼んでも親のことなんか顧みようともしいひん──。長男の主税ちからはんは生きる気力をなくして自害したと聞いてましたけど、ほんまは生きてはるんでしょ。大石家の恥になる放蕩息子やて、死んだことにしたはる」

りくは顔を覆い、むせび泣く。竹月院はりくを見つめて言葉を続ける。

「燕や燕、なんじ悲しむなかれ。汝まさに返ってみずからを思うべし。思え、汝が雛たりし日。高く飛して母に背きしときを──。わが子に去られた親鳥も、かつては同じように親鳥のもとを飛び去ったんやて、白詩はうとうてます。せやけどおなごの鳥は武家に生まれたら内羽根を切られて、高く遠くは飛んでいくことができひんのかもしれません」

軽が言うには、りくは娘時代に剣術師範と駆け落ちをしたらしい。だが家老職の家柄がそれを許さなかった。だからりくは、放蕩な息子に目をつむらざるをえなくなった。

「四郊いまだ寧静ならず、老いて垂れんとして安らかなるを得ず。子孫陣亡し尽くし、いずくんぞ身の独り完うすることを用いん──」

杜甫の『垂老別すいろうべつ』を詠い始めた竹月院に貞立尼が目を見張る。千年前の唐の漢詩で、戦に赴く老人が遺した別れの言葉だ。自分は老いたのにいまだに安らぎを得られない。子や孫はみな戦で死んでしまい、自分が戦わなくてはならない。幸いにも一緒に戦ってくれる仲間もいるし、歯も抜け落ちずに残っているが、骨は干枯ひからびていく。貞立尼が願掛けの紙に描いた案山子を背負った豚は、猪にまたがる摩利支天まりしてんだったのだろう。兵たちを無事帰還させてくれる戦の守護神だ。

「奇跡的にひとりも死なんと討ち入りを果たしたとしても、男はんに代わっての討ち入りであるかぎり、皆さんは負けたことになるんです。男はんのためにおなごが命をなげうつのは美徳やと言いますけど、それは男はんの都合に合わせた美徳ですさかい」

何を申されるかっと、奥田の大奥方が夫の形見の脇差しを握りしめる。

「男とておなごが無念の死を遂げれば仇を討ちますぞ。それが武家というものじゃ」

「おなごの無念を晴らすためやなくて、男の体面を保たんといかんからと違いますやろか」

「それが武家というものじゃと言うておりましょう。竹月院さまに分かれとは言いませぬ」

「ひとつお尋ねしてよろしいでしょか。討ち入りの資金はどれぐらいおありですか」

貞立尼は「藪から棒になんと卑しいことを聞く」と苦々しい顔をし、二百両だと言った。みなが売れるものを売り、蓄えを吐き出し、金貸しにぬかずいて掻き集めた血の結晶だと。

「死出の旅に帰りの路銀は要らぬ。三途の川の渡し賃があればじゅうぶんじゃ」

「渡し賃を残すどころか、三百両ほどお足が出ます」

竹月院は袂から算盤そろばんを出した。

「江戸までの路銀と討ち入りまでの逗留費で二百両と計上しはったんやと思いますけど、おなごは手形で身元や人相風体を証明しいひんと関所を通れまへん。お軽さまが旅芸人から聞かはった話やと、四十七浪士の後家らが妙な動きをしてへんかと関所に手配書が出て、これまで以上に厳重なお調べをしてるようどす。そやけど凶状持ちとは違うのやから、然るべき手回しをしたら目こぼししてくれはります。少なすぎるのは論外やし多すぎても怪しまれます。三十三人分の全行程で百二十両が相場です」

竹月院がぱちんと珠を入れると、女たちはざわめいた。

この続きは有料会員登録をすると
読むことができます。
cakes会員の方はここからログイン

1週間無料のお試し購読する

cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。

人気の連載

おすすめ記事

かぐや姫、物語を書きかえろ!

雀野日名子
河出書房新社
2021-11-02

この連載について

初回を読む
かぐや姫、物語を書きかえろ!

雀野日名子

物語の神は言った、「男が中心に存在してこそ“正しい物語”である」と。 そんな神の支配する『竹取物語』の世界に生きる内気な姫さよは、帝の后選びの場で勝気な姫ごうに出会う。自由を求め物語の神に反旗を翻した二人は、『源氏物語』から『平家...もっと読む

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード

コメント

Tweetがありません