【
浅野
「討ち入りが計画倒れに終わって良かったのです。実行に移されていれば、さらなる悲しみが生じていました。男児は連座で刑に処され、残されたおなごも自害していたでしょう」
だが彼らが討ち入りを決意していたことは世間の知るところとなり、腑抜け呼ばわりされずに済んだ。しかも
「殿にはあれほど、何を言われても
内匠頭は以前から吉良
「ところで竹月院。内蔵助どのの三回忌を終えたら
「そういうわけには……浅野家はお取り潰しのままで、再興してはりませんし」
竹月院は内蔵助の後妻だ。夫が急死した後、髪を切って可留という俗名を捨てた。年はまだ十八である。
「気にしなくてもよいのです。もう少し待てば、キヨが再興の道をつけてくれます」
キヨは浅野家にいた若い女中だ。お家お取り潰しの後、大名の乳母宅に奉公にあがったのが縁で、次期将軍と噂される子息の寵愛を得ることになった。将軍就任と嫡男出産が実現したら浅野家再興を願い出るそうだが、富くじをあてにするようなものだ。
「とにかく好きに生きなさい。大石どのの
りくは内蔵助の前妻だ。四十七浪士の多くは、妻子が巻き添えを食らわないように形式的に離縁した。内蔵助も「若い妾ができた」と言って身重の妻を子どもたちとともに実家に帰した。そうして内蔵助のもとに連れてこられたのが、京の筆問屋に奉公していた可留だったのだ。
だが親子ほども年が離れた内蔵助とは夫婦の感情など湧かず、可留は前妻やその子らの生活の匂いが残る屋敷で過ごしながら、戻りたいという感情に駆られていた。奉公先でも故郷でもなく、ともかく自分の戻るべきところに戻りたい。それがどこかは、きっとあの月だけが知っている。そんな思いで空を仰いだ夜は数えきれない。
「うちは再嫁は考えてへんのです。今みたいに暮らしていけたらじゅうぶんどす」
可留は現在、古い蔵を改築して住まいにしている。朝は畑の世話に汗を流し、昼は裁縫指南をし、夜は仮名文字の
「それに瑤泉院さまも、こうして京を訪ねてくれはりますし、不服はあらしまへん」
「そなたのことは年の離れた妹だと思っています。それに軽が、竹月院のところに遊びに行きたいと駄々をこねるのですよ」
瑤泉院は板間を見やる。寝転がって手鏡を眺めているのは、子のない瑤泉院と内匠頭の養女の軽で、竹月院と一歳違いだ。先々は婿を取って家督を継がせるつもりだった。
軽の胸には原因の分からないあざが無数にある。祈祷師は前世で矢を浴びたのだと言う。瑤泉院が軽を京に連れてくるのは、
「竹月院、あとで軽に町見物をさせてやっておくれ。軽はそなたと出かけることを何よりも楽しみにしているのです」
軽は寝転がったまま、ぷうと屁を放った。
「姉さま、どう? このかんざしは似合うておる?」
小間物屋で、軽はあざみの花かんざしを髪に添えてみせる。
戦の世が終わって百年になる。政治の中心は京から江戸へと移ったが、京は大坂とともに上方と呼ばれ、文化や流行の発信地として存在感を示している。
買ったばかりのかんざしをさした軽は「次はどこに行く?」と竹月院と手を繋ぐ。
「草紙屋に行きましょ。今日は新作が入荷される日やさかい」
井原西鶴や八文字屋の新作を追いかけるのも楽しみだが、無名作家の掘り出しものを探すのはそれ以上に楽しい。
平安の世では物語の多くは女たちの手でつづられていた。だが戦の世に入ると男たちが筆や紙を独占して合戦の様子や武将の生涯を記録し、「物語」は不要なものとされた。そんな戦の世が終わって泰平の世が訪れると「物語」は息を吹き返した。人々は手軽に楽しめる物語を求め、だれかれなく物語を書くようになり、上方には書店や版元が続々と誕生している。
軽のお気に入りは『たけとり血風録』という作者不詳の草双紙だ。『竹取物語』を題材にしたもので、帝の兵隊が月の使者と戦う場面に力を入れている。「帝の『み』の字は皆殺しの『み』」と鼻歌まじりに凄まじい挿絵を眺めてばかりいるが、読む習慣を付けてくれるのならそれでいいと瑤泉院は許している。
草紙屋の
「今日は大坂から面白い本が入りましたんや。平家物語の珍説本です」
老店主が棚から取り出したのは『をんな義経』という作者不詳の草双紙だった。
「源義経が女やったという話です。五百年も前から
平家物語には読みものと語りものがある。読みものは男の手で書かれた軍記物で、語りものは瞽女や琵琶法師が語り継いできたものだ。紙に残された物語は消失することも多いが、口頭で受け継がれる物語は形を変えながらも生き残る。
「お安うしときます。静御前が太刀の舞で武者千人をなで斬りにしたとか、それを真似たのが
今は二束三文としか扱われない作品でも、何十年か後には名作に化けるかもしれない。そうした期待と予感を胸に、竹月院は草紙屋に足を運ぶのだ。
店の表が騒がしくなる。供を従えたお大尽の
cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。