20代、恋愛にまつわる愚痴
中原中也(なかはら・ちゅうや)・詩人
1907年-1937年。昭和前期の詩人。山口県生まれ。幼少期から詩や短歌の才能を見せはじめ、やがて上京し、「汚れつちまつた悲しみに」「頑是ない歌」など数々の抒情的な詩を残す。生前に詩集『山羊の歌』、死後に『在りし日の歌』が刊行された。
奇妙な三角関係の果てに綴った愚痴
詩人・中原中也は、若い頃、同棲していた女性に逃げられたことがある。その女性、長谷川泰子は、ある日突然、中也との愛の巣を捨て別の男の家へと移り住んだのだ。その男とは、中也の友人であり、中也の詩のよき理解者でもあった小林秀雄である。当時小林は23歳、泰子は21歳、中也は18歳の年の暮れであった。
恋人が自分を捨てて、あろうことか友人のもとへ走った、というのは、ドラマのような衝撃的な出来事である。しかし、当日の様子を記してみると、それははた目にはとても奇妙な状況だった。
当日、中也は泰子の荷物を運ぶ手配をしたばかりか、割れ物などはなんと自ら抱えて小林の家まで運んだのだ。
さらに、小林の家まで荷物を運び終わると、泰子は「少し遊んでいきなさいよ」と中也を誘い、恋敵であるはずの小林さえも「ちょっとあがれよ」と中也を自分の家の中へと誘ったのだという。
恋人に捨てられた男と友人から恋人を奪った男、そして同棲相手を捨て新しい男のもとへと走った女。3人は、一つ屋根の下で、どんな話をしたのだろうか? 中也は、皮肉めいた言葉の一つもいったようだが、殴り合いのケンカになったわけでは、もちろんない。
しばらくして中也は一人家を出た。夜露に濡れながらしばらく往来を歩いたのち、一人きりの部屋で眠れぬ夜を過ごした。不思議と涙は出なかった、という。
3人の奇妙な、ドライともいえる関係はその後も続く。小林と泰子は3年と持たずに同棲関係を解消。やがて泰子は別の男性の子を産む。いわゆる「未婚の母」だ。そして、生まれた子の名付け親となったのが、中也である。小林と中也の友人関係も続いていく。それどころか、小林は中也の詩の最大の理解者であり続け、編集者として発表の場も与えている。
そして、中也は1933年、小林はその翌年に別の女性と結ばれ、泰子も36年に子の父とも別の男性と結ばれている。
こうして見ていくと、中也がこの事件にさほどの衝撃を受けていなかったようにも見える。しかし、内実は違う。事件から数年経ち、小林と泰子が別れた後、中也は『我が生活』という小文を書き、事件の衝撃を綴っているのだ。その中の一節が「俺は、棄てられたのだ!」である。それだけではない。
「嘗ての日の自己統一の平和を、失った」
「とも角も、私は口惜(くや)しかった!」
と、愚痴をひたすら綴っている。しかも、「⽇が経てば経つ程」「ただもう⼝惜しくなるのだった」ともいっているのだ。
しかし、その衝撃は、詩人・中原中也にはよい刺激となった。直接的、間接的に、泰子との愛と別れの影響を受けたとされる詩の存在が、多くの研究者から指摘されてもいるのだ。
*本連載は、福田智弘・著『人間愚痴大全』(小学館集英社プロダクションより10月21日発売)をcakes用に再編集したものです。