砂浜に舟が乗りあげたのは夜明け頃のこと。船酔いと寒さで波打ち際で倒れていた
物語の神は屋島の源氏軍と海上の平氏軍を大増量した。『平家物語』は屋島の戦での兵数を具体的には記していない。したがって一万にしようが十万にしようが物語の神の勝手なのである。
屋島の合戦場に到着した義子は、茫然自失した。
海岸は見渡すかぎりが源氏の白旗で埋め尽くされ、海上は赤の軍旗を掲げる平氏の舟が水平線も見えないほど溢れかえっている。一ノ谷での兵数は源氏平氏それぞれ八万ほどだったが、今は五十万、いや百万、いや日本じゅうの男を集結させたとすら思われる数で目算などできない。源氏と平氏も前代未聞の兵数に困惑し、攻めあぐねている様子だ。
「何をしゃしゃり出てきた義子! 己の無能さをまだ自覚できぬか!」
数人の配下を従えた
「源平の戦を終わらせにまいりました」
義子は海上の平氏軍と向き合い、波打ち際へと馬を進める。平家の舟から野次が飛んだ。
「一ノ谷の姫君大将ではないか! 赤い
「女人は人形遊びでもしてなされ! 源氏の戦はおままごとじゃのう!」
平家の舟から笑い声が上がる。源氏の兵たちも黙ってはいない。
「合戦場は女人の遊び場ではござらぬ!」
「合戦に女人は不要じゃ!」
そのとき、沖合から一艘の小舟が源氏軍のほうへと漕ぎだしてきた。
物語の神は「ごう」の舟を沖のほうへ遠のけた。これだけ離せば「義子」の小ぶりな弓では届かない。那須与一だけが射落とせるのだ。この男は『平家物語』に華を添える主要人物のひとりである。扇を見事に射落として開戦の火蓋を切り、壮大な戦物語はいよいよ盛りあがりを見せるのだ。そこに小娘ごときの入りこむ余地などない。
沖に引き戻されるように後退し、海岸との距離を大幅に開ける舟を見て、那須与一はたじろいた。しかも風は海から陸からと秩序なく吹き続け、豆粒のような扇は揺れるばかりで定まらない。
「あれだけ遠くては無理でございます! 神仏に課せられた試練としても、あまりに無慈悲」
「たわけっ! 源氏を
範頼と与一をよそに義子は海へと馬を進め、肩に担いだ矢筒から一本抜き、針穴のようにしか見えない扇の日の丸に照準を合わせる。範頼は「どこまで恥をかかせるか!」と義子を罵り、源氏軍からも平氏軍からも怒声や嘲笑が上がる。
──弓矢の鍛錬と引き換えに物語を与えられてきたなら、今度はその弓矢で物語を作るのじゃ。
あの月明かりの夜、湯殿で静はそう言ったのだ。
南無八幡大菩薩。もう
義子は目を閉じて風の動きを読む。陸から追い風が吹いた瞬間、目を開けて矢を放った。