我が家の洗濯機
さて、そんなこんなで夢のようなノー家事生活を手に入れた私だが、実際にやってしまえば、特別な技術や才能がいるわけでなし、さらにはお金がいるわけでも全くなく、つまりは誰だって、その気になりさえすればこんな人生、すぐさま手に入れることができる……はずなのだ。
でも現実は、なかなかそうはいかない。それは一体なぜなのだろう。これは、家事に悩む全ての人が、一度じっくり腰を据えて考えるべきモンダイだと私は思う。
何しろ現代ほど多くの人が家事の負担を減らそうと頑張っている時代はない。暮らしには何かとお金がかかり、その割に収入は増えないというドン詰まりの時代ゆえ夫婦共働きは当たり前、となれば当然「家事は誰がやるんだ問題」が発生するわけで、つまりは世の少なからぬ人が、どうにかして家事をラクにしたいと日々真面目に考え、努力を重ねているはずなのである。
でもそれが、ほぼ全くうまくいっていないのだ。
総務省の調査によれば、男女合計の家事時間は5年前と比べて5分減った。もちろん増えていないだけマシではあるものの、にしても、5分。5年で5分。1年で1分……いや何もバカにするわけじゃないが、私がごく短期間にノー家事を達成したのと比べれば、差はあまりにも歴然である。
このように懸命に努力しているのに物事がちっとも改善しない場合、その原因は一つしかない。
努力の方向性が間違っているのだ。
良かれと思ってやっていることが、案外ほとんど意味がない、いやむしろ、物事を悪化させる原因になっている可能性だってある。
それは何を隠そう、私の体験そのものだ。
努力の方向性が真逆だった?
約半世紀にわたり、家事をラクにして華麗なるスマートな人生を送らんと自分なりに頑張ってきた。でも今にして思えば、当然のように努力してきたことが、実はことごとく家事を大変にし、人生を混乱に陥れる原因そのものになっていたのだ。でも本人は真面目に努力しているので、うまくいかないのはまだまだ努力が足りないからだとさらにトンチンカンな努力を積み重ね、結局、物事をどんどん悪い方向へと引っ張っていた。
そんな出口なき蟻地獄に自分がハマっていることに気づくことができたのは、たまたまの偶然に過ぎない。
原発事故。そして50歳にしての退社。いずれも家事云々とは全く関係のない出来事のはずだったが、結果的に、ノーテンキな私がまさかの電気とお金に頼らない暮らしを選択するという一大転機になった。つまりは「便利」「効率的」という、私が家事省力化のためにずっと頼ってきたモノや考え方をことごとく手放さねばならなくなったのだ。
すると、まあなんということでしょう。
全く予期しなかったことに、その瞬間からいろいろなことが音を立てて解決し始めたのである。かくして私は50歳を過ぎて初めて、自分がいかにトンチンカンなことをしまくってきたかを思い知ることとなった。
家事をやめるための(イナガキ流)3原則
いやー、本当にびっくりだ。もちろんそれに気づくことができたのは非常に喜ばしいことではあったが、同時に、これまで無駄に費やされまくった時間、エネルギー、お金のことを考えると何とも言えない悔しさがこみ上げてくる。ああもっと早くこのことを知っていたならば、私は人生の貴重な時間をもっと豊かに悠々と楽しむことができたに違いない。アサッテの方向に必死に走っていた過去の自分に、「いやいや、そっちじゃないんだ!」「その先には地獄しか待ってない!」と大声で叫びたい気持ちでいっぱいである。
だが、過ぎた時間を取り戻すことは誰にもできない。
というわけで誠に勝手ながら、私はこのフンマンやるかたない思いを、現在を生きる見知らぬ方々にぶつけることにした。
まずは何はともあれ「家事をやめるための(イナガキ流)3原則」と題して、世間の人々の多くが陥っているにちがいない「重大な勘違いポイント」をお伝えしたい。中には極論と思えるものがあるかもしれないが、もしあなたが今本当に家事の負担に悩んでいるならば、きっと物事を解決する糸口の一つ、発想の転換のヒントにはなるはずである。
その1 「便利」をやめる
いきなり「は?」と思われることでありましょう。
そりゃそうだ。面倒くさい作業(例・家事)をしなきゃならない場合、その面倒くささを軽減してくれるマシン等を使えば作業は格段にラクになる。これ当たり前。誰が考えても百パーセント正しいとしか思えない理屈だ。
もちろん私もずーっとそう思ってきた。
ところが、我がノー家事生活の発端は、連載第1回目でも書いたように、原発事故という予期せぬアクシデントを機に、それまで当たり前に使っていた便利な家電製品を一つ一つ手放していったことから始まったのである。
炊飯器をやめた。電子レンジをやめた。掃除機をやめた。洗濯機をやめた。冷蔵庫をやめた……もちろんいずれも決死の覚悟。何しろこのどれ一つとしてそれなしの人生なんて想像したこともなく、つまりはこれらの製品は我が家事そのものであったと言っていい。これなくしてどうやって家事が成り立つのか想像したこともないのである。故に当然、どれほど大変なことが待ち受けているのかと怯えながらの決断だった。
ところが。いざやってみたら、全くどうってことなかったのだ。それどころか、どんどん家事がラクになってきたのである!
もちろん混乱した。
そして必死に考えた。これは一体どういうカラクリなのか??