毎日チャチャっと手で洗って干す台所用フキンと銭湯用タオル。発想を変えれば体も家も同じようにらくらく洗える
……生きていると、不思議なことがある。
我が人生からなんと、家事が、消えた。
そう、50年近くずっと格闘してきた家事。やらなきゃやらなきゃと思って、でもふと気づけば洗濯物はたまり食器はたまりホコリもたまり洋服は散乱し、つまりはいつも全然やりきれなかった家事。だっていくらやっても終わりってものがないんだもん! と言いつつ、そんな汚い部屋で暮らす自分がイヤになっちゃう家事。でも忙しいからしょうがないじゃんと一生懸命心の中で言い訳しなきゃいけない家事。そんな折から明らかに私よりずっと忙しそうに大活躍している人が完璧に家事をこなしてるっぽい美しい自宅で雑誌の取材か何かに答えているのを見てひどく落ち込む家事。結局、自分という人間は人として大事な何かが欠落しているのではなかろうかと苦しい気持ちになる家事……。
そうなのだ。家事というものは、別に好きでも何でもないのに、生きている限り私の人生に妖怪のごとくペッタリと取り付き、絶え間なくエンドレスなうっとおしさをグイグイ提供し続けてくる存在なのであった。
それが、ふと気づけば、いない。消えてしまったのである。
我が人生に何が起きたか
まずは、感想を一言。
いや……最高だ——!!!!
……ま、こうはっきり言い切ってしまうとチョット家事が可哀想になってくるかもだな。何しろどれほどウットオシイ輩でも、突然目の前から消えちゃうと案外寂しいというか、急にその良さに気づいたりするじゃないですか。そうなの実は今、案外家事が恋しいの。いやむしろ、今なら家事ウエルカムかもグフフ……などと余裕をかましてみたりして♡
まあいずれにしてもこんなこと、ほとんどの人は簡単には信じてくれないに違いない。そりゃそうだ。ここはハリーポッターの国じゃなく平凡なジャパンという現実世界。呪文を唱えたり杖を一振りしたりして何かが消えるということは、ない。
つまりは、このマジックにはタネも仕掛けもちゃんとあるのだ。で、タネを明かしてしまえば「なーんだ」というようなことなのである。
でもこの「なーんだ」が案外、経験したことのない人には「その手があったか」と目からウロコだったりするのではないだろうか。何しろ私自身「その手」には生まれてこのかたこれっぽっちも気づいておらず、こんなウロコならもっと早く剥がしておきゃ良かったと今になってつくづく思うのだ。
ということで、まずはざっくりとしたウロコの正体、つまりは我が人生に何が起きたのかを書こうと思う。
家電製品、もしやなくてもやっていける?
異変が始まったのは忘れもしない40代半ばの頃。最初のきっかけは、原発事故を機に始めた「節電」である。あまりの深刻な事態に遅ればせながらショックを受け、我が「原発に頼った便利な暮らし」というものを生まれて初めて意識したのは私だけではなかろう。かくして電気代を1円でも減らすべく一人勝手に格闘を続け、となると独身ゆえいったん始めるとつい調子に乗る性格を止める人もおらず、最終的には、ずっと当たり前に頼ってきた家電製品を「もしや、なくてもやっていけるのでは?」と恐る恐る手放していくという暴挙に至ったのであります。
そうしたらデスね……そう皆様、ここからが肝心なところですよ!
なんと驚いたことに、家電を一つ手放すたびに、家事が飛躍的にラクになっていくではないか!
いや……案外軽く書きましたが、ここめっちゃポイントです。だってこれって、ものすごーくおかしくないですかね? だって家電製品というものを一言で言うならば、「家事を楽にするための道具」ですよねどう考えても!
だからいくらお調子者の私とて人生を投げうつ覚悟で一つ一つ手放していったわけで、それがですよ、いざ手放してみたら家事がめちゃくちゃラクになるなんて一体誰が想像できようか。魔法というよりシュールすぎる手品のようだ。でも、これが掛け値なく本当のことなんだから仕方ない。
そうなんですよ。本当の本当に、掃除機を手放したら掃除が楽になり、洗濯機を手放したら洗濯が楽になり、炊飯器や電子レンジやついでに冷蔵庫もなくしたら炊事が飛躍的に楽になったのだ! 我ながら狐につままれたようである。
そして次の異変は、思うところあって50歳で会社を辞めることとなり、人生初の「給料をもらえない生活」に直面した時に起きた。
家事がラクすぎてまさかの家事ラブ!
当然のことだが、それまで当然のごとく享受してきた生活をあれこれ諦めねばならなくなった。家賃を抑えるため高級マンションから老朽ワンルーム(築47年、33㎡)に引っ越したら収納ゼロというまさかの事態に直面し、結局、洋服も化粧品もタオルも食器も調味料も調理道具も、つまりは私が長年にわたり懸命に働いてコツコツ買い集めてきた我がコレクションをほぼ全て手放す羽目になった。洋服は、かつてのベストセラー『フランス人は10着しか服を持たない』を地でいく10着程度、食事はカセットコンロ一個で塩と醤油と味噌だけで全調理を行うというソロキャンプみたいな生活の始まりである。修行中のお坊さんだってもうちょっとキラキラした暮らしをしてるんじゃないかと思う今日この頃。
で、その結果何が起きたかというと、なななんと、さらに家事がラクになりまくったのだ!
今や、掃除も洗濯も炊事もそれぞれ10分程度しかかからない。で、ここまでラクになってくると、そう最初に書いたアレですよ! あんなにうざかった家事ラブになってきたのだ。
例えば、そう1日の終わり、我が極小の台所を蛇口もガス台も流しも壁も全てキュッキュと布巾で拭き、最後にその布巾をじゃぶじゃぶ洗ってベランダにパシッと干す時の快感と言ったら! ああ1日を整った状態で終えるとはなんと気分の晴れやかなことか……ということに、私は50年生きてきて初めて気づいた。「整う」とは何もサウナーの専売特許ではない。どんな贅沢な娯楽も、これ以上のリラックスと心の平穏をもたらすことはないのではとすら思う。となると、これも我ながらビックリしたんだが、あんなに夢中になりまくってきたグルメだのショッピングだのという「ハンパな娯楽」に全く振り回されなくなった。だって生きてる限り最低限の家事はついて回るわけで、その家事が楽しいんだから、つまりは生きてるだけで楽しさが保証されているんである。つまりは私はいつだって満たされているのだ。「足りないもの」など何もないのである。
ワンパターンはラクで平和だった
ああこんなことが、我が人生に起きるとは!
で、これは一体どうしたことか? と思うわけです。
これまでただ1日とて、家事を「やりきる」ことなどできなかった、そんな私の身に一体何が起きたのか? 何しろ、私自身は何も変わっていないのだ。家事塾に通って家事が飛躍的に得意になったわけでもないし、何かスペシャルな家事軽減情報を身に付けたわけでもない。なのに、家事がグングン楽になり、最後にはわずかに残ったそれすらも娯楽と化すというオドロキの変化が我が身に起きてしまった。
なるほど、つまりはこういうことだ。
原因は私自身ではなく、私を取り巻く環境にあったのではないか。
「原発事故」と「退社」という大きなアクシデントにより、私は一言で言えば「便利で豊かな暮らし」に背を向けて生きなければならなくなった。つまりは、あれもこれも手に入れられる世界は消え、何もない小さなハコのような部屋で、毎日同じものを着て、毎日同じものを食べて暮らすことになった。いやもう全くありえないことだ。だって私はそんな人生を絶対に送りたくなくて、何十年も厳しい競争を続け、耐え難きを耐え忍び難きを忍び、自分なりに懸命に努力してきたのではなかったか。一体あの努力は何だったのかと、本来ならば地団駄を踏むところである。
ところが驚いたことに、実際やってみたら、それで案外十分だったのだ。だってないものは仕方がない。あるものでやるしかない。そう割り切ってしまったら、そこには不安や不満どころか、まさかの安らぎと平和があった。何しろワンパターンで小さな暮らしは、ひどくシンプルで簡単なんである。そう一言で言えば「ラク」なんである。
これまではそうじゃなかった。便利で豊かな暮らしは、思い返せばひどく大変でもあった。あれこれ手に入れるために努力し、手に入れたものを活用するにもそれはそれで努力が必要だった。なるほどそうか。私がこれまでなぜ家事ができなかったのかというと、それは自分で自分の欲望を制御しきれていなかったからじゃないだろうか。
問題は家事能力の低さにあらず
そうだよ。もっとおしゃれなものを着たい、もっと美味しいものを食べたいというちっぽけな欲を膨らませ続けた結果、家の中はいつだって、食べきれない食べ物やら、着きれない洋服やらで溢れかえっていた。そしてそれを収容するために家はどんどんデカくなった。当然、料理も掃除もどんどん大変になり、それをなんとか楽にしようと「便利なもの」を買い、その便利なものを使って何かをしようと思うからさらにものが増える。ああ欲望の雪だるまやー! かくして我が家はいつの間にか、私の制御不能な欲望が充ち満ちた魔の巣窟となっていたのである。
そんな家をきちんとコントロールすることなんて誰にできるだろう?
つまりは私が整理しなきゃならなかったのは、モノより何より自分の肥大化した欲望だったんである……ってことが、今となっては痛いほどよくわかる。
でもずっと、そんなことは考えてもみなかった。家事ができないのは自分の家事能力が低いからなんだと、ずっと自分を責めていた。いやいやそうじゃなかったんだと知っただけでも本当に生きてて良かったと思う。私はただ、何かに取り憑かれていたのだ。そして、その呪いの魔法は誰だって、自分の力でちゃんと解くことができるのである。
……と言われても、まだまだ半信半疑の方がいるかもしれませんね。そんなことくらいで本当に家事が消えるのか? はたまた、百歩譲って家事が消えたとしても、そこまで欲望を制御して生きるなんてそもそも生きてる意味がないのでは……などなど。
なるほど。ならば次回はもうちょっと詳しく、ノー家事生活で我が人生がどれほど劇的に好転したか、その「永遠に快適な安心ライフ」の実態について書こうと思う。