嵐の夜に駆け込んできた女性の傷
開局してしばらくすると、「ニュクス薬局」は、新聞やテレビなどで取り上げられる機会が増えてきた。「中沢さん」の存在が、次第に知れわたったことで、深夜にかかってくる相談の電話も、なにか話したそうにやって来るお客さんの数も増えてきた。
ある夏の夜。東京に台風が直撃した。
風が強く音を立てて吹き荒れている。どこかの看板が飛んでいく。さすがの歌舞伎町も人通りはまばらだったが、ニュクス薬局は、いつもと同じように営業していた。
しかし、当然ながら、お客さんはほとんど来なかった。
夜中の3時を過ぎ、雨脚はどんどん強くなる。
そんな中、傘をさしながらもびしょ濡れになったひとりの女性が入ってきた。はじめて見る顔である。中沢さんが「処方箋かな、急患かな」と思っていると
「いま飲んでいる薬について相談したい」
と言う。わざわざこんな嵐の夜に? いぶかしがりながらもカウンター前の椅子にうながすと、彼女は、腰を下ろした。
そのまま、彼女はしばらく躊躇していた。ニュクス薬局のガラス窓のむこうでは、強い雨風がびゅうびゅううなりをあげている。しばらくして、彼女は語りはじめた。
彼女は、性的暴行の被害者だったのだ。犯人は、仕事関係者だという。
じつは中沢さん、ブログで、性的暴行を受けた女性の心理状態について書いたことがある。それをたまたま目にした彼女が、
「このひとになら話をしてもいいかもしれない」
と思ってやって来たのだ。親にも、友だちにも、ほかの誰にも話せなかったけど、ここでなら話せるかもしれない。
かといって、他のお客さんがいる前では話せない。慌しいときに行って、ちゃんと聴いてもらえないのも困る。
だから彼女は、嵐の日の深夜にやってきた。「さすがにこの状況なら誰もいないんじゃないか」と考えて……。おそらく、ずっとタイミングを見計らっていたのだろう。中沢さんはただ、彼女の口からはじめて発せられるその話を聴いた。
「性的暴行」は、許すことのできない重罪だ。中沢さんは、このような相談を受けたとき、どう対処するのだろうか? 警察に通報することをすすめるのか? 具体的な相談先を教えるのか? それとも……?
「求められたら、その分野に詳しいNPOを紹介しますけど。
でも、私のほうからこうしなよ、ああしなよってアドバイスすることはないです」
とくに時間の経った性的暴行の場合は、行動を起こしても心の傷が深くなるだけのことが多い。時間が経てば経つほど相手のおこないを証明するのが難しいし、なにより自分の身に起こったおぞましい出来事を思い出し、たくさんのひとにあれこれ具体的に話さなければならなくなる。覚悟をしていても苦しく、つらいこと。それを強いることはできない。
また、犯人は仕事関係者だったという。不用意に「行動を起こそう」と呼びかけることでどのような苦難が待ち構えているか、その暴力性もよくわかってもいるのだろう。
目の前のお客さんが1日でも早く元気になれることが、中沢さんの薬剤師としての使命なのだ。ゴールは、犯人をつかまえることでは、ない。警察じゃなく薬局なのだから。
女性が求めていたのも、じつは同じなのじゃないだろうか?
訴訟はできない。具体的な行動は起こせない。けれど、自分だけで抱えつづけるのはつらい。だから、「ただ話したい」のだ。「ただ聴いてほしい」のだ。
苦しみにつぶれそうになったその女性にとって、ニュクス薬局は、文字どおり駆け込み寺のような存在だったのだろう。
嵐の夜に彼女のこころは、ほんの少しだけ軽くなった……はずだ。
「ミスが多い」と悩む事務員の決断
聞かれなければアドバイスはしないけれど、聞かれれば本心を伝える。これが中沢さんのルールでもある。
3年ほどニュクス薬局に通っている女性がいる。
水商売の女性ではない。派遣で、ある会社の事務をしていたけれど「仕事がうまくいかない」と悩みつづけていた。ひょっとすると、自分は「ADHD(注意欠陥多動性障害)」なのではないか、だから仕事もうまくいかないのではないか、と真剣に悩んでいた。
「ADHD」とは、発達障害の一種で、「集中できない、忘れっぽい、落ち着きがない」などの症状が出る。かつては幼児期に見られる障害と思われていたが、近年、「ADHD」と診断される成人も増えている。
彼女の場合も、トイレに化粧品や携帯を忘れるといったうっかりミスが多く、仕事でも失敗が重なっていた。
「ほんとダメ人間だ、どうすればいいんだろう?」
中沢さんのところに来ては、そう漏らしていた。
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