わたしがこの銀色に光る新しい体を手に入れた時、まず最初に思ったのは
「ああ、これでもう男たちに好き勝手にされずに済む」ということだった。
身体を売ることだけしか知らずに育って来た。ここに住む他の多くの女の子たちと同じように。
泥の中にニキがいる。ニキの手は変形している。小屋の前に座り込んでいた彼女はわたしを見つけると、最初は目をまん丸にして、次には変形した手をひらひらと振りながら、満面の笑みで迎えてくれる。
「いい体じゃん。おめでと、ニナ」
「ありがと……あんた、今日は?」
「あと2人とったら終わりだよ。アナル好きな客2連チャンだから嫌んなっちゃう」
「そっか。頑張って」
ニキの指は3本しかない。折れた傘の骨みたいにクネクネと曲がっている。こういう子が好きな客もいるから稼ぎには困らない。好きなくせして、お前みたいなのでも買ってやってるんだ、って態度を取るから、その分手荒く扱われることは多いけど。
瞬き3回でカメラ・アイが起動した。パチリと音がして、ニキの歯の抜けた笑顔がカメラロールに保存される。カメラ・アイは唯一、義体化(サイボーギング)の際にわたしがオーダーしたアクセサリだった。写真を撮るのは好きだ。
右手の指先をこすり合わせると、半透明のメディアパネルが顔のすぐ前に立ち上がった。SNSにログインして書き込む。
「今日で上がります。バイバイ、くそチンポども!」
たちまち近所の女の子たちからメッセージが届く。
「いいなぁ、ニナ!」
「どのモデルにしたの?」
「アタシももうすぐ卒業予定。友割チケットちょーだいね」
画面から吐き出されたカラフルな3Dスタンプが空中を跳ね回る。わたしはその1つ1つに「いいね」をつける。
「これで病気とか気にせずゴミ山の作業員になれるね!」
何も持たないわたしたちにとって、唯一の救いは機械の体を手に入れること。
暴力と支配と惨めな思いを弾き返す、合金製の丈夫な義体(ボディ)を手に入れること。
他に撮るものを探して空を見上げた。小屋の裏手には巨大なゴミ山が広がっていて、そこから吹き出す有毒ガスと、近所の工場から流れてくる煙のせいでこのへんの空は常に紫色だ。おばあは寝たきりのベッドからよく空を見上げては「ジャカランダの色だね」と言って微笑む。ジャカランダって何、と聞くと、お花の名前よ、とおばあは言う。
「おばあは見たことある?」
「あるわよ、この辺りはわたしの若いころからゴミ山だったけど、それでも植物は生えてた」
そう言っておばあは腕のボタンを押し、メディアパネルを立ち上げる。おばあの腕は錆びついて赤茶け、あちこちから神経コードが飛び出している。やがて紫の花をどっさりとつけた、空まで届く巨大な木の3D映像が浮かび上がった。おばあの体は数十年前、数々の感染症が世界中で蔓延し、多くの人が義体を求めた第1次義体化ブームの頃に買ったものだ。いまではメーカーが倒産し、バージョンアップは不可能だった。「ニナちゃんの生まれ月には、それはそれは綺麗な花が咲いてねぇ、よくデートの口実に、ジャカランダを見に行こう、なんて言ったものよ」
わたしは花なんて見たことがない。花だけじゃない。植物なんて、ここらには滅多に生えない。義体化でもしない限り、このへんで生き物が長く命を保つのは難しかった。地球規模の環境汚染と数々の伝染病、生まれた時から吸い込み続ける有害物質、1年中降り注ぐ超強力な紫外線。それらのせいで、わたしたちの身体は成人する頃にはボロボロになってしまう。だからそれまで必死で身体を売り、稼いだ金でフルボディで義体化するのが、わたしたち娼婦にとっての〝当たり前〟だった。
わたしの場合は、ちょっと特殊だったけど。
16歳の誕生日の朝、高級スーツに身を包んだ男たちがやってきて、わたしの肉体が欲しい、と言った。「16歳の、健康な若い娘の身体を探してる金持ちがいるんだ」
悪趣味なフェイク・ダイヤを義体(からだ)じゅうに埋め込んだ、その生体エージェントの男は言った。「あんたの身体を俺たちに売らないか。もちろん、最新のH/T(ヒューマンテック)社の義体と交換だ」
今や、健康な生身の肉体で生きることは限られた富裕層だけの特権だ。彼らはスラムの住民が絶対に足を踏み入れることのない超高級エリアに住み、完璧に密封、滅菌された清浄な空間から決して出ることなく暮らしている。それでも世界人口の60%が遺伝病に冒されているこの世界では、生まれ持った身体を保つのは難しい。だから彼らは身体を買う。莫大な金をかけて他人の肉体に脳を移植し、若々しく健康な姿を保つ。
「もちろんお前さんの身元はバレないさ。運悪く脳死した中産階級の子女ってことにして高く売ってやる。処女膜は再生するし、傷跡やなんかは培養皮膚で一発だ。──金持ちなんて、バカだから簡単に騙せる」
なんで金持ちたちは義体にしないの、とおばあに聞くと、おばあは「生身の肉体でないと、味わえない喜びってもんがあるんだよ、スポーツとか、食べることとか」と言った。
「スポーツって?」
「肉体の能力を競うことだよ。昔はね、強靭な身体を持つことは、人間の誇りだったの。おばあが子供の頃にはオリンピックってものがあってね、世界中から強い肉体を持った人たちが集まって、それぞれの能力を競ってたの」
「何それ。義体の方がずっと便利だし、頑丈じゃん」
「まあ、そうだけど、あとは、セックスだろ、あとは、出産とか、育児とかね。昔は誰もがあの苦痛を味わっていたものだよ」
「げぇ。最悪」
「わざわざ苦痛を背負うなんて馬鹿げてると思うけど、一部の金持ちってのは懐古趣味なんだ」
それにね、とおばあは続けた。
「生身の身体(オリジナル)を保つことは、一種のステイタスなんだ。己の資金力を見せつけるためのね。わたしたち貧乏人はさ、生きるために、義体化するしかないだろ」
変なの。生身の身体があったことで、喜びなんてあったかな。
男たちは常に、乱暴にわたしの身体に押し入ってきた。どれだけ痛くても怖くても、それに耐えなければいけなかった。若い頃は高級娼婦だったおばあに似て、わたしは美人だったし、元の体にはスラムの子には珍しく、なんの遺伝病も基礎疾患も、外見上の奇形も見られなかった。五体満足で、思春期を迎えてもなんの病も発症せず、超健康優良娼婦として稼げたのは、わたしを産んですぐに逃げたママがどっかの超健康優良客(バカ)にナマでやられて孕んだおかげ。おばあはお前には変な客を取らせたくないと言って、回転率が落ちてもわたしを高く売ってくれた。だから他の子たちよりは少しは扱いはましだったけど(もうすぐ義体化するからいいだろと言って、客に指を切り落とされた子もいる。そんなこと、ここじゃ日常茶飯事)それでも男たちは一様に乱暴だった。まるで他人の身体を無下に扱えることを、一種の特殊能力として誇るみたいに。
ばっかみたい。
あんたたちのチンケなパワーなんて、機械の体でたやすく代用できる程度の、しょっぼいもんでしかないのに。
話を戻すと、そんなわけでエージェントの男たちと契約し、新しく手に入れた義体を初めて見た時、わたしはホッとしたのだ。これでもう、少なくとも「女(モノ)」として扱われることはない、って。
わたしはゲットしたばかりの機械の腕を曲げ伸ばしてみる。まだ神経接続が上手くいってなくて力加減がわからない。指先まで完璧に磨き上げられた美しいアルミ合金の外殻(フレーム)は、太陽を浴びてきらきらと光った。爪も欠けない。ささくれもない。綺麗だね。そう、はじめての客の男がわたしの手を握って言ったことを思い出す。すべすべで、おまんじゅうみたいで可愛い手だね、この辺りの子らなんて、16歳過ぎればボロ雑巾みたいな身体になっちまうだろ、だからさ、やっぱり女は10歳までに限るんだ。
わたしは思う。
生身の肉体を信奉する奴なんて、皆ばかだ。
生まれつきの身体なんかより、この体の方がよっぽどいい。そうはいってもわたしが手に入れたのはH/T社の販売する義体の中では1番安価な汎用モデルだったから、何年も使えばすぐにガタがくるだろう。メンテにも金がかかり、みなそれを賄うために月額制の割高なプランに入る。解約には莫大な違約金がかかるため、家族を思うと自死(セルフ・スクラップ)もできない。バージョンアップは目まぐるしく、ローンを払い終わる頃には見計らったように新しいモデルがリリースされる。ローンの返済に追われ、メンテとマイナーチェンジを繰り返し、脳の寿命が尽きるか、メンテ費を払えなくなるか、そのどちらかが来るまで働き続ける。それがわたしたち超貧困層の、ありふれた一生。
「義体を買うために生きてるのか、生きるために義体を買うのかわからないね」とおばあに言っても、おばあは「そいが言うても、おばあはニナちゃんに生きていて欲しいが」と笑うだけだった。劣化によって、あらゆる痛みも苦しみも悲しみも記憶から脱色されたおばあの笑顔は、年に1度の夏祭りで見る、祭壇の中の仏様の顔に近い。納得はできなかったけど、感染症にかかって内臓がむしられるほどの苦痛を味わい、周りにウイルスを撒き散らして死んでゆくのとどっちがマシか考えると、一生の負債を背負うことになってでも、義体を手に入れた方がいいと思えるのだった。それに、わたしがいなくなったら、おばあの面倒は誰が見るんだろう。
バイバイ、わたしの肉体(からだ)。
もう、ちぎれそうなほど乳首を噛まれたり、顎関節がおかしくなりそうなほど喉奥にペニスを突っ込まれることもない。毎月血を垂れ流す、やっかいなあの穴も、新しいこの義体(からだ)にはない。
代わりに6本の腕があるわけでも、超高性能AIが入ってるわけでもないから、わたしにできることといえばAIすらやらないような最低賃金の肉体労働だけだ。でも、それでよかった。生身の時からわたしはずっとモノだったし、義体を得た今から先もずうっとモノだ。同じモノなら、男に押し入られないモノの方がずっといい。
もう一生、目にすることもないだろう。あんなもの、持ってるだけなんの意味もない。せいぜい、バカな金持ちたちの手で好き勝手されればいい。
そう思っていたから、スラムから15㎞離れた市街地の役所におばあの給付金を受け取る手続きのために行った帰り道、車の窓から外を覗くわたしの姿を見かけた時、わたしは死ぬほどびっくりしたのだ。
その高級車は、やけにゆったりとした動きで、──どこかへ向かうというより、そこにいること自体が目的、といったスピードで、市街地の喧騒の中にそのばかみたいに長い体を割り込ませて来た。
その時のわたしは路上のスタンドで義体の充電をしている最中だった。路上は人でごった返し、視界は排気ガスとPM2.5であいかわらずドロンと濁り、50m先もよく見えないくらいだったけど、それでも、他でもないわたし──いや、ついこの前までわたしだった肉体(モノ)──が何かを探すように車の後部座席の窓から外を見ているのを、わたしは見逃さなかった。
「すげえ車だな。どっから来てんだよ」
わたしの隣で、同じように腰にチャージャーを差した男(たぶん。各人が好みの外殻を選べるようになった現在では、外見の特徴から中身の性別を推測するのは難しい)がひとりごちた。
「ありゃGFD(グリーンフィナンシャルディストリクト)の金持ちだな」
その隣に立つ男が、車のナンバーにちらりと目を注いでそう返す。
GFDは国の富の80%がそこに集まると言われている経済特区だ。ガラスのドームに覆われ、遠くからは巨大なシャボン玉のように見える。入り口には幾重もの厳重な警備がなされ、許可を得た人間しか中に入れない。その中心にそびえ立つのは、1000mを越す巨大な「GFDタワー」だ。超強力な空気清浄装置によって内部の空気は濾過され、AIロボットによって1秒ごとにエリアの隅々まで滅菌され、許可を得ていない有機体は、ウイルス1粒すら中に入れない。あらゆる健康被害から住人たちを守る、超高級マンション。誰もが1度は住むことを夢見る、地上のサンクチュアリ。そこに住めるのはこの国のトップ1%の富裕層だけだ。
「そんなところの人間が、なんでこんなところまでわざわざ出てくるんだよ」
「下々の人間の生活でも眺めたくなったんだろう。物見遊山さ」
「そんなに病気が怖いなら、GFDにすっこんでろよ」
男は忌々しそうに悪態をついた。「金持ちの考えることにゃわからん」
男たちの会話はそこで途切れた。
わたしは狭い道の上で立ち往生する、巨大な車の後部座席を見つめた。その子は──わたしの身体の新しい持ち主は、分厚いUVフィルタに遮られながらも、懸命に何かを探すように目を凝らしていた。首元と、窓に添えられた手首の端には着ている洋服の一部が見え、ほんの少しだけでも、それがとても高価なものであることは分かった。
車が一瞬、バックした。その途端、どきりとした。その子がわたしを見た。わたしの瞳が──正確には、元の体(わたし)のなかに入った誰かが、わたしを見つめている。
いや、勘違いだ。わたしの平凡な外殻には、目立つ要素は1つもない。だから、あの子がわたしに気を止めるはずもない。ましてやわたしが、あの子の新しい身体の元の持ち主だなんて、気づくわけがない。
思ったとおり、すぐに目は逸らされた。後ろの車のクラクションに押し出されるようにして、車はゆっくりとコーナーを曲がり、雑居ビルの向こうへと消えて行く。
車体が見えなくなる寸前、わたしは3回瞬きして車のナンバーの写真を撮った。なぜ、自分がそんなことをしたのかわからなかった。
わたしはわたしの身体を売った生体エージェントの男にコールした。
「ねえ、わたしの身体を買った人って、どこのだれかわかる?」
「そいつは教えられないな」エージェントは言った。
「お前も知ってるだろう。生体の買い手の個人情報は厳重に保護される。売り手にすら教えられない決まりだ」
「実はね」
わたしは嘘をついた。
「この前さあ、わたしが生体(オーガニック)だった頃にずっと診てもらってた医者に会いに行ったんだよ。あんたたちに売る前に、検査して診断書書いてもらったやつね。90を越す爺さんなんだけど、もうすぐお迎えが来るって言うからさ。そしたらあの耄碌じじい、実は診断書をごまかした、なんて言うんだよ。実はわたしの身体には重要な疾患があってね、けど、病気が発覚したら売れなくなるだろうって、なかったことにしたんだって」
わたしはよく知られている疾病の名を口にした。
メディアパネルのスピーカーから、男が息を飲む音が聞こえた。生体移植後に申告されていない疾病が見つかった場合、エージェントは莫大な損害賠償と違約金を請求される。
「……畜生、ぶっ殺してやる」
「残念ながら、爺さんはもう死んじゃった。安心して。すぐにどうにかなるような病気じゃないのは知ってるでしょう? 薬さえ飲めば、進行は限りなくゆっくりになる」
男の荒い鼻息だけが聞こえてくる。一応、聞く耳はもっているようだ。
「──あんたたち、富裕層向けの家政婦のエージェントにもつながりがあるよね? わたしがその家にメイドとして潜り込んで、薬をいまの生体保持者(オーナー)にどうにかして飲ませるようにする。病気の進行を遅くすれば、違約金を請求されることもないし、相手の寿命が延びた分だけ、あんたたちは生体のメンテ費を搾り取れる。それだって、あんたたちの重要な収益源なんでしょう。どう?」
「くそっ! どうもこうもねえよ」
「報酬は、メンテ費を分けてくれればいいよ」
「調子に乗るんじゃねえぞ!」
「7:3で。プラス、おばあに新しい義体を用意して」
「ふざけるな! 殺されてえのか!」
「今すぐ〝疾患のある16歳の生体をあんたたちに売った〟ってネットに書き込んでもいいんだけど」
男は舌打ちした。
「お前、先はねえと思えよ」
数分後、ファイルが通信画面にドロップされた。偽の履歴書と、メイド・エージェントの連絡先だった。
「どうも」
「エージェントには、こっちから手を回しておく。メンテ費の取り分はこっちが8でお前が2。中古の義体をつけてやるからそれで我慢しろ……言っておくが、絶対に身バレするんじゃねぇぞ。俺たちまで消されるからな」
「そんなにやばい相手なの?」わたしは聞いた。
「あのな」男は声を潜めて言った。
「お前の身体を買ったのは……H/T社のCEOだよ」
(続く)
第二回は明日12月26日公開です。