朝6時半に起き、シャワーを浴びて鏡の前に立つ。久しぶりに袖を通す黒いワンピースに、いつもだったらラメの入ったアイシャドウをつけるところだが、この日はマットなものを選んだ。
Amazonから届いたばかりの数珠とふくさを持って玄関に向かう。ヒールの靴は持ってなかったので、ドクターマーチンのローファーにした。
向かう先は落合斎場。伯母の葬儀だ。
霞がかった朝、駅を出るとすぐに住宅街が広がる東中野駅の道を、奇妙な緊張感に包まれながら進んだ。近親者との別れだというのに、喪失感や悲しみを感じ入ることはなかった。
***
幼い頃から葬式には参列してきた方だと思う。3歳ぐらいの時に、父方の祖父が他界してから祖母や従兄弟など親族たちを弔ってきた。
当初は死という概念がわからず、葬儀後に親戚で食事をとる会だという認識しかできなかった。葬儀中に見かける丸い木魚は可愛いらしく見え、家に帰っては読経のモノマネをしていたぐらいだ。けれども、8歳で母が他界した時は、あまりに号泣したので母の遺骨を拾えなかったらしい。
母の葬儀場で飛び交う「あの人は心の中で生き続ける」という言葉は綺麗事にしか聞こえなかった。どんなに涙を流しても故人が蘇るわけではない。遺された人たちが悲しいという感情を煽ぎたてているようで、幼いながらに嫌悪感を覚えた。
故人の棺に花を入れ、火葬場で焼かれた遺骨を拾う。この決まった流れも、あまり好きではなかった。死はそれぞれ違うものなのに、決まった形式に押しはめられていく。葬儀は次第に「気の進まない行事」のひとつになっていった。
しかし、今回は少し違うものになった。大人になってから初めての葬儀であったし、初めて運用側として参加することになったのだ。
伯母の入院
伯母は、私の母が20年前に他界してから母親のような存在だった。独身で祖母たちと暮らしていた彼女は20年勤めた会社を辞め、ほぼ毎日我が家を訪れては家事をこなしてくれたし、勉強嫌いの私の教育係まで担っていた。母を亡くした喪失感は、伯母によって大きく埋められていた。
しかし、成長するにつれて伯母の世話になることは少なくなった。彼女は再び働き始めていたし、私も一人で出来ることが増えていった。何より、段々と伯母の存在が鬱陶しくなっていた。感謝しなくてはいけないのはわかっている。けれども、価値観の違いが会話のちぐはぐさを生み、苛立ちを覚えた。
「遊んでばかりいないで自己投資しなさい」「良い大学に入らないと」「総合職ではなくて一般職にしなさい」「大企業に入りなさい」とか。自分の価値観こそが正解で、押し付けられているような気がした。
結局、私は新卒では総合職についたし、何度も転職をしてしまった。ケチをつけられるにきまっている。自分の仕事の説明をするのも億劫で、社会人になってからはろくに連絡もとらなくなっていた。「顔を出したらどうか」という連絡が来ても、会ったところでイライラしそうで何かと都合をつけた。
春先、緊急事態宣言が出る少し前だったと思う。近所の魚屋に向かっている途中で伯母から電話が来た。「末期がんであることがわかった」「一年持つかがわからない」という内容だったと思う。電話を受けた当初、突然の知らせに「勘違いではないか」と思ったぐらいだ。コロナウイルスの感染予防のため病院側から見舞いは無理だと言われたが、容態が落ち着いて外出許可がおりた夏ごろには、久しぶりに顔をあわせることができた。
抗がん剤で髪が抜けてしまっているらしいが、自然なウィッグをつけていたので思ったよりも元気そうだった。瞳には光が宿っていたし、ハキハキと話した。
「嘉島唯って検索したら出てきた記事読んだわよ。あんなこと書いて」
相変わらず鬱陶しかった。”あんなこと”とは、多くの場合、ネガティブな事柄を指す。確かに私の書いてるものは暗い内容が多いけれど、もっと言い方があるじゃないか。顔に苛立ちが出ないように、奥歯を強く噛んだ。その後に「絶対子供を生まないとダメ」とか「結婚しないと幸せになれない」とか、いつもの話がはじまった。病に倒れても憎まれ口は健在で、逆に安堵すら覚えたぐらいだ。
10月の半ばには、近親者数名に一度だけ見舞いが許された。事前に「最後の面会になる」と言われていたので、自分なりに気持ちの整理をつけておきたかった。手紙をしたためるのは湿っぽいので、代わりにnoteを書いた。伯母は私の名前で検索しているらしいから、何か書いておけば読むかもしれない。届かなくてもいいし、届いても良かった。
文章を書いている間、涙が止まらなかった。伯母は私たち姪のために会社を辞め、育ててくれた。母のように献身的に支えてくれた彼女は、果たして幸せだったのか。公にする文章を書いていると、右に左に行く自分の気持ちが、一本の線になっていく。生前に弔いの気持ちを記すのは不謹慎に見えるかもしれないが、伯母のことを大切に想っていたことが初めてわかった。
伯母は素直さが足りない人だった。なんでも一人で背負い込み、誰の助けも求めない。凛としていると言えば聞こえはいいが、意固地だったのだと思う。本当は人一倍優しいのに、つい憎まれ口を叩いて強がってしまう。「私のようになっちゃダメ」。伯母はこんな風に漏らしていた。
病院での面会は10分しか許してもらえなかった。個室のベッドの上で、たくさんのチューブで繋がれた伯母は、もうウィッグすらつけていなかった。夏頃よりもさらに小さくなり、意識が薄れているのがわかった。話しかけても、しっかりとした反応は返ってこない。遠のく意識の中で最後にこう言った。
「確定申告と年末調整をよろしくね」
この期に及んで、事務処理の話が出てくるとは思わなかった。まったくもって伯母らしい。
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