九
川に落ちた又四郎という童子を救ったことがきっかけで、藤九郎は又四郎の一家と親しく行き来するようになった。
高瀬の対岸を少し行ったところにある木葉という村で農家を営む一家は小さな地主で、食うに困るほどではないものの、厳しい生活を強いられていることに変わりはない。
又四郎の父親の弥五郎は四十絡みの精悍な男で、村では一目置かれる存在だった。
藤九郎は農民たちと親しくなるためのきっかけを作ろうと、弥五郎の家にしばしば行った。
暖かい日差しを浴びながら弥五郎の家の広縁に腰掛けていると、時が経つのを忘れてしまう。
「なるほど。これまで肥後国では、一国を統一できるほどの勢力が育たなかったんですね」
「そうなんです。この国では、国人たちが猫の額のような土地をめぐって争っているだけで、大きな勢力は育ちませんでした」
十六世紀初頭に守護大名の菊池氏が没落した後、肥後国では国人たちが割拠する状態が続いた。その後、薩摩から北進してきた島津氏の支配下に置かれるが、天正十五年(一五八七)五月、秀吉の九州征伐によって島津氏は肥後国から追い出され、佐々成政が入部することになる。
弥五郎が続ける。
「そんな状態ですから、それぞれの村は、どこかの国人の傘下に入り、その国人のために人を出すことはしても、国全体で何かをするという考えは根付いていないのです」
「これまで、国を挙げて何かを行うことはなかったんですね」
「はい。とくに自分たちの村に利がないことには、どの村も人を出したがりませんでした」
──それでは治水は難しい。
そんな意識では、それが成った後に受ける恩恵が村ごとに差が出る治水など、できるはずがない。
藤九郎は暗澹たる思いに囚われた。
「佐々様が入国した時も、何のことやら分からない者が大半でした。続いて加藤様がやってこられて、ようやく中央には関白殿下がおられ、肥後国の大名として加藤様と小西様が来られたという構図が分かってきたという次第です」
──無理もないことだ。
肥後に限らず、大名不在の国は国人支配が常識であり、全国統一政権など理解できない。
弥五郎と話し込んでいると、母親と娘が膳を運んできた。
「又四郎は寝たのか」
「はい。気持ちよさそうに寝息を立てております」
「よかった。これも木村様のおかげです」
「これからは気をつけて下さい」
「はい。承知しました」
「遅れましたが」と言いつつ、弥五郎が妻と娘を紹介してくれた。
この時、藤九郎は娘の名を初めて知った。
──たつ、という名か。
「これからも、よろしくな」
「こちらこそ、よしなに──」
二人が土間と接する広縁まで下がって平伏する。九州では女性の地位が低いと聞いていたが、こうした場合に、同じ座で頭を下げるだけの尾張や美濃の風習とは大違いだ。
「粗末なものですが、お召し上がり下さい」
弥五郎が恥ずかしげに勧める。
「何を仰せですか。うちも食うや食わずの農家でした。こちらの方がずっと豊かです」
藤九郎の言葉で、弥五郎たちの間に安堵の笑みが広がる。
「それで木村様は、こちらにお一人で来られたのですか」
「はい。母や弟妹を置いてきました。それなりの生活ができるようになったら、こちらに呼ぶつもりでいますが、いつになるやら」
「ということは、こちらに根を下ろすと──」
「そのつもりです。もはや郷里に未練はありません」
「つまり、まだ嫁御をお迎えになられてはおらぬのですね」
「ええ、まあ」
今はそれどころではないが、いつかは嫁を迎えたいと思っていた。
「そのうち、よき嫁御が見つかるといいですね」
「こちらには、尾張や美濃から多くの男たちが来ています。嫁取り競争が激しいので、それがしのところになど来てくれる娘はおらぬでしょう」
二人は膳をつつきながら、話に興じた。
「ときに木村様、新たな仕事はどのようなものですか」
「それが、この近くの仕事なのです。またしても皆の力が必要になります」
「ということは木葉川の流路でも変えるのですか」
「いや、次は要害の構築です」
「要害と──」
弥五郎が驚く。
「この付近に要害を築きます」
「いったいどこに」
藤九郎が懐から絵地図を取り出す。
「三池街道は、木葉川から分岐した支流の中谷川沿いを通っていますね」
「その通りです」
「この街道を管制する城を築きます」
「管制、とはどういう字を書くのですか」
「唐土の古典にある言葉だそうですが、街道や川筋を支配下に置くことです」
藤九郎は筆と紙を取り出し、「管制」と書いてみせた。
「随分と難しい言葉をお使いになるのですね」
「ええ、実は──」
藤九郎は、父の残した秘伝書について語った。
「それで木村様は、若くして抜擢されたのですね」
「まあ、そういうことになります」
事情を察した弥五郎は、周辺の地勢について語ってくれた。
──賢い男だ。
弥五郎は周囲の地勢を熟知しており、農民にしては理解力にも優れていた。しかも様々な雑説(情報)にも通じている。
「ときに弥五郎殿のご先祖は、武士だったのでは」
「実を言うとそうなのです。当家は父の代までは地侍だったので、祖父や父から厳しく学問を教えられました」
それで弥五郎が賢い理由が分かった。
「これもご縁ですね」
「ははは、そのようですね。息子を救ってくれたご恩に報いるためにも、お力添えいたします」
そう言うと、弥五郎は話を戻した。
「つまり街道を管制するということは、他国からの侵入を危惧しておられるのですね」
「今、天下は豊臣家の統制の下に治まっていますが、いつ何時、戦国に逆戻りしないとも限りません」
「なるほど。では、どの国を敵と思っておいでか」
藤九郎が絵地図を広げ、地図の下方、すなわち南を指し示す。
「関白殿下が、殿と小西殿を肥後国に配したのは、第一に島津の抑え」
薩摩国を中心にして七十万石余の石高を有する島津氏こそ、最も警戒すべき勢力だった。それゆえ秀吉は島津氏の抑えとして、子飼いの清正と行長を肥後国に配した。とくに清正への期待は大で、秀吉は小西領の南にある葦北郡の半分を、飛び地として清正に与え(残る半分は相良氏領)、島津氏を牽制させることにした。
「第二は北の抑え」
この時、北西の筑後国には立花宗茂が、その向こうの肥前国には鍋島直茂が、北の筑前国には小早川隆景が、北東の豊後国には大友義統が配されていた。それぞれ十万石以上の大名で、豊臣家に忠節を誓っているとはいえ、外様なので表裏は定かでない。
「いかにも北の抑えも、おろそかにはできませんね」
「はい。それでも豊前方面だけは、さほど案ずることもないと思われます」
「黒田殿ですね」
豊前国には黒田孝高・長政父子が配されているので、いざとなれば小早川・大友両氏を牽制してもらえる。
「そうです。しかし肥前方面は侮れません」
鍋島・立花両家は、何の障害もなく肥後国に侵攻できる位置にある。
「つまり加藤様は、豊前街道よりも三池街道を恐れておいでというわけですね」
豊前街道と三池街道は隈本から二里半ほど北の植木までは同じだが、そこで豊前街道は北東の山鹿方面へ、三池街道は北西に分岐し、菊池川を渡って筑後国を経て筑前国まで通じている。その途次には肥前国に通じる道もある。
「鍋島殿が欲心を起こし、立花殿もそれに同心すれば、隈本まで一気に攻め寄せられるのです」
「この街道図を見れば、その通りとしか言えませんね」
弥五郎が渋い顔でうなずく。
「それで殿は、『変事が出来した折、街道を封鎖できる要害をどこかに築け』と仰せになりました」
「それが管制ということですね」
「はい。そこで、この山はどうかと思っています」
藤九郎が広げた絵地図の一点を指し示す。
「田原山ですか」
田原山とは、後に田原坂と呼ばれることになる独立丘陵のことだ。
「三池街道は田原山の南面を通り、植木に達していますので、要害を築くには適地ではないかと」
「いや、事はそう容易ではありませんぞ」
「と、仰せになりますと」
「田原山は大きい。それゆえ北から東にかけて要害を築けば、三池街道を管制下に置けるのですが、そうなると南の吉次峠を越えていく支道を管制できません」
三池街道は菊池川右岸の繁根木で分岐し、本道は東の高瀬へ、支道はそのまま南下して菊池川を渡河し、伊倉と原倉を経て吉次峠を越えて木留に至る。
「つまり、田原山の北面に城を築くと、吉次峠越えの支道が管制できないのですね」
「そうです。敵が大軍の場合、二手に分かれることも考えられます」
「では、こうしたらいかがでしょう」
藤九郎が地図の一点を示す。そこには二俣山と書かれていた。
「ここに砦を築けばよいのでは」
「なるほど、それは妙案。しかし──」
しばし考えた末、弥五郎が言った。
「それでは田原山の北面と二俣山の双方に兵を置くことになり、双方の連携は難しくなります」
──その通りだ。
しかも田原山の北を通る三池街道の本道は側面からの攻撃になるので、敵が支道にも兵を分かち陽動策を取ってきた場合、通過を許してしまう危険性がある。
二人は夜半まで話し合ったが、妙案は浮かばず、翌朝、弥五郎の案内で田原山周辺を歩き回ることにした。
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