十七
明治二十八年十二月、第九議会が開催された。この議会では、清国から得た賠償金をどう使うかが主要の議題となった。
この審議の最中、多数を占める自由党に対抗していくために、大同団結が叫ばれ、翌明治二十九年(一八九六)三月に進歩党が結成された。これにより百三議席が結集され、自由党の百六議席に対抗していくことも可能になった。だが改進党の実質的リーダーの大隈の意見に賛同しない者も多く、党首が置かれなかったという事実からも分かる通り、野合の感は否めなかった。
第九議会が終わった直後の同年四月、大隈は二十八年ぶりに佐賀に帰国することになる。
——ようやく帰ってきたか。
四月二十五日の午後、佐賀駅で汽車を降りた大隈は、車椅子を拒否して第一歩を踏みしめた。その瞬間、様々な思い出が一気に押し寄せてきた。
——ここは、わしが育った町だ。
鉄道の駅もでき、佐賀は二十八年前とは様変わりしたが、当時を偲ばせる建築物もまだ多数残っており、様々な思い出が次々と浮かんでは消えていった。
——八太郎、ようやく帰ってきたのだな。
晩春の涼風の中に、閑叟の声が聞こえた気がする。
「お父様、まだ歩くのですか」
熊子が心配そうに問う。
「ああ、もう少し佐賀の土を踏みしめたいのだ」
この頃から、熊子は大隈の秘書的役割を果たすようになっていた。ちなみにこの時、実母の美登と会わせてくれるという人がいたが、熊子は丁重に断った。もはや実母は遠い存在であり、それぞれ別の人生を歩んでいたからだ。
大隈の傍らには介添え役の熊子が、その背後には数百人の出迎えの人々が続く。沿道にも多くの人出があり、大隈の姿を見た人は、この日だけで一万人以上と伝えられた。
この時、同郷の武富時敏や江藤新作が、地元の有力者と共に大隈を出迎えた。武富も江藤新作も東京在住だが、先に帰郷して大隈を出迎える形を取ったのだ。
武富時敏は、この頃の大隈の片腕の役割を果たしていた。一方、江藤新作は新平の次男のことで、進歩党に属し、武富と同じく衆議院議員となっていた。
佐賀に着いた日はそのまま宿に入った大隈だったが、翌日から活発な活動が始まる。まず松原神社に赴き、続いて鍋島家の菩提寺の高伝寺に、最後に大隈家の菩提寺の龍泰寺に詣でた。
さらに翌日から様々な式典に参加し、講演や座談を行った大隈は、五月四日にいったん佐賀を離れて武雄と伊万里を回り、十二日に再び佐賀に戻った。
十三日は本行寺にある江藤新平の墓に行った後、来迎寺にある島義勇の墓に行こうとしたが、遠かったので断念し、代わりに川原招魂社(後の佐賀縣護國神社)に行き、佐賀の乱で死罪に処された十三人を祀った「嗚呼の碑」を参詣した。
それが終わった後、境内に設えられた休息所で、大隈らはしばしの休みを取った。
「新作よ、貴殿の父は時代という荒波に抗し、見事な最期を遂げた」
「ありがとうございます。この佐賀の地以外では、父は反逆者として扱われ、私も肩身の狭い思いをしてきました。それを見事と言っていただけ、感無量です」
江藤亡き後、大隈は新作のことをなにくれとなく心配し、経済的援助をしてきた。それに応えるかのごとく、新作は必死に学問を収め、衆議院議員にまでなった。
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