九
明治十八年になると、いよいよ大隈の資金繰りが厳しくなってきた。それゆえ大隈は、雉子橋邸を売り払い、早稲田に移りたいと周囲に漏らしていた。
この頃は、大隈が立憲改進党を脱党したことから、政府も警戒を緩め始めていた。つまり大隈を早稲田に移らせ、その関心を学校経営に向けようとした。そのため政府は渋沢栄一を介して雉子橋邸の売却を打診し、榎本武揚に貸与する話まで出てきたが、最終的には渋沢本人が買い上げ、後にフランスに転売し、フランス公使館となっていく。
明治十九年(一八八六)になると、議会開設まで四年となり、政府も民間勢力も動きが慌ただしくなってきた。旧自由党出身者は大同団結を呼び掛け、再び反政府活動を盛り上げようとしていた。しかし十月に開催された有志懇親会で、旧自由党系の壮士の一人が元立憲改進党の沼間守一を殴打する事件が起こり、大隈をはじめとした立憲改進党系の人々の参加を躊躇させた。
それでも運動は、明治二十年(一八八七)になると、「地租軽減、言論・集会の自由、外交政策の転換」を求め、いっそう盛り上がりを見せ始めていた。とくに井上の外交政策への批判は高まり、井上が条約改正の交換条件として、諸外国に提示した「外国籍判事・検事の採用」と「法典の外国による承認」は屈辱的とされ、批判の的となっていた。
これには内閣の法律顧問のボアソワードや法律を専門とする井上毅までもが反対し、伊藤内閣の農商務大臣の谷干城は、「条約改正反対意見書」を提出して辞任した。
これを受けて七月、井上馨は条約改正交渉の無期延期を各国公使に通達した。そして八月、大隈は岩崎弥之助を介して井上馨から会いたいという打診を受けた。しかもこの面会は秘密裏に行うため、伊香保温泉まで来てほしいという。
早速、挨拶を済ませた後、大隈、井上、岩崎の三人は、貸し切った露天風呂に向かった。温泉という場所はいかにも井上らしい。これまでのことを水に流し、裸の付き合いをしながら語り合おうという趣旨なのだろう。
湯に入りながら、ひとしきり昔語りなどをした後、井上が切り出した。
「二人をお呼び立てしたのはほかでもない。これまで行き違いが多かった貴殿らと仲直りがしたくてな」
弥之助がにこやかに言う。
「私の方は政府と共に日本郵船株式会社を設立したことで、わだかまりは雲散霧消しました。それより大隈伯爵の方はいかがですか」
弥之助は兄の弥太郎とは正反対の性格で、温厚篤実をモットーとし、いつも笑みを浮かべているような人物だった。
明治十八年九月、政府肝煎りの共同運輸は岩崎家の経営する三菱汽船と合併し、日本郵船株式会社として再出発した。弥太郎の跡を継いだ弟の弥之助は、海運事業から手を引いたので、弥太郎の死の直前まであった政府とのわだかまりは消えていた。
大隈が照れながら言う。
「岩崎さん、その大隈伯爵というのはやめて下さい。これまで通り、大隈さんで結構」
大隈は同年五月、板垣退助、後藤象二郎、勝海舟らと共に叙爵されていた。つまり佐賀藩の中級藩士が、遂に「皇室の藩屏」たる華族に列せられたのだ。大隈は断る理由もないのでこれを受けたが、今にして思えば、大隈、板垣、後藤ら野党勢力の重鎮たちに融和の気持ちがあるかどうかの、伊藤たちの踏み絵だったと分かる。むろん板垣、後藤、勝もこれを受けた。
伯爵はかつての中藩の大名たちと同等の爵位で、また副島や大木らも凌駕するものでもあり、これまでの大隈の政府への貢献の大きさが評価されたと言えるだろう。
「大隈さんとは肝胆相照らした仲だ。だが行き違いもあった。それを水に流し、新たな日本のために力を合わせていきたい」
そう前置きした後、井上が思い切るように言った。
「大隈さん、私は辞任する」
岩崎の顔色が変わる。
「これは極秘です。お二人とも当面は黙っていて下さい」
「もちろんです」と岩崎がうなずく。
井上が続ける。
「それで大隈さんには、私の後任として入閣してほしいのです」
伊香保温泉にまで呼ばれたので、この申し入れは半ば予期していた。
「伊藤内閣の外務大臣ですか」
「はい。当初はそうなりますが、主な舞台は次の内閣になります」
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