二
「いやー、広いだけで何もないところですね」
人力車を下りた小野が呆れたように言う。
二人の目の前には青々とした田園風景が広がっていた。
七月七日、大隈と小野は連れだって早稲田の地を訪れていた。
「この辺りには、かつて彦根藩や高松藩の別荘があったらしいが、今はそれらも取り壊されたり朽ち果てたりして、田んぼや畑になっている」
「確か早稲田田甫と呼ばれているとか」
「そうだ。今では誰も見向きもしない土地だ」
小野が感心したように問う。
「しかし大隈先生は、この土地を明治四年に買い入れているんですよね」
「ああ、築地邸が高く売れたので、その金で買っておいた」
小野が感心したように言う。
「当時から、学校を建てようと思っていたのですか」
「まあ、建前でそう言っているが、本音を言ってしまうと、別荘を建てて老後を優雅に過ごそうとしたのだ」
二人の笑い声に驚いた野鳥が、一斉に飛び立っていく。
「それは話半分に聞いておきましょう」
大隈は、かなり早い時期から学校の開設を準備していた。だが公務に多忙で、全く手が付けられなかったのだ。
「小野君、この地は東京の西に偏っているが、逆に学生たちは伸び伸びと学べると思うのだ」
「そうですね。これだけ広いと、さぼる場所にも事欠かない」
二人が再び笑う。
「ここに、この国の将来を担う理想の学び舎を作るのだ」
「そうです。政党を結成するだけでは片手落ちです。将来の政党政治を担っていく人材の育成こそ急務なのです」
この頃になると、かつて江藤や大木が打ち立てた「学制」によって、江戸時代とは全く異なる教育を受けた人材が成長し、さらに専門的な知識を身に付けたいと思う若者が急増していた。しかし専門的な学問を教える官立大学は、東京大学一校があるだけで、あまりに狭き門だった。
しかも藩閥政治の影響で、山口・鹿児島両県出身の若者が学生の半数近くを占めているため、他県の若者にとって、政治家や官僚への門戸はさらに狭くなっていた。
——薩長閥は教育分野にまで侵食し、子々孫々まで続く絶対的な権益を築こうとしている。そんなことを許してたまるか。
それでもこの頃、専修学校(後の専修大学)、東京法学社(後の法政大学)、明治法律学校(後の明治大学)といった私学の雄たちが次々と産声を上げていた。自然、山口・鹿児島両県出身以外の若者は、そちらに向かわざるを得ない。
——ここに造るわれらの学校は、彼らの受け皿になるのだ。
小野が力を込めて言う。
「昨年から今年にかけて、私学が次々と創設されていますが、すべて法律家の育成にあり、これからの政党政治を担う人材の高等教育機関はありません」
「そうだな。われらは政治、法律、経済などの諸分野に精通した人材を育成し、政界だけでなく実業界でも通用する人材を育成していきたい」
「その通りです。旧来の儒教教育を完全に払拭し、自由独立の気風を持った新たな日本人を作るのです!」
小野の目指すところは、イギリスの中産階級以上に見られるような自立した「個人」の育成だった。
小野が続ける。
「自由独立の気風は何よりも大切です。この学校の卒業生たちが、いかなる道に進もうが本人たちの自由です。つまりわれわれは、卒業生に立憲改進党への入党を勧めません。政府に入ろうと、自由党に入ろうと、また一個人として実業の世界に身を投じようと自由なのです」
本来なら小野は、学生も卒業生も立憲改進党員にしたいのだろう。だがそれは自由独立の精神に反するので、自主性を重んじようというのだ。それはお上から「こうしろ」「ああしろ」と言われるのに慣れてきた日本人の精神を、根底から叩き直すものだった。
——日本人は長きにわたり、お上に押さえ付けられ、考えることを停止させられてきた。考えるのはお上、すなわち一握りの江戸幕府の老中や若年寄たちの仕事であり、それ以外の者たちは、たとえ大名でも唯々諾々と決定に従わねばならなかった。だが小野の言うように、これからは一人ひとりが自分の見識や意見を持ち、政府に物申していかねばならない。そのためにも、政府の影響から脱した私学の高等教育機関が必要なのだ。
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