七
九月、清正の裁可も出て、いよいよ菊池川治水普請の準備が始まった。九月いっぱいは人員や資材などの手配に費やされ、十月から着工となる。
様々な権限が付与されているとはいえ、藤九郎は若輩者であり、何事も順調には進まない。どうにもならない時は兼能に頼み込むつもりだが、藤九郎はできる限り、自分の力で厄介事を解決しようとした。
算用方や作事方などには、菊池川の治水普請事業の重要性が正確に伝わっていないこともあり、資金を出し渋ったり、意地の悪いことを言ったりする者もいる。彼らは能吏だが、秀吉から清正に付けられたことで誇り高い上、高齢の者が多く、益体もないことで理屈をこねたがる。
──そこに人がいる限り、最低でも一つの理屈が発生する。
組織というのは難しい。何がしかの権限を付与すると、人はそれを行使したがる。高所に立てば無駄なことでも、自らの権威を周囲に知らしめるためか、己の自尊心を満足させるためか、つまらない理屈をこねて時間を稼ごうとする。
兼能に頼めば済むことだが、藤九郎は自らの力で問題を解決すべく、彼らを懸命に説き、納得してもらうことを繰り返した。
──厄介事というのは、上に頼めば済むことでも、己の力で片をつけることで、相手の心を開かせることができる。それゆえ最後の最後まで上の力を借りてはならない。
藤九郎は経験からそれを学んだ。
ところが、自分だけでは解決し得ない問題も発生していた。近隣の農民たちが人を出してくれないのだ。これは地方巧者と自ら称する佐之助の役割だが、佐之助には地縁も血縁もなく、事がうまく運ばないのは当然だった。
清正は着任早々、十石に一人の賦役を各農村に課していた。これは豊臣政権下の大名の標準的なものだが、これまで統治というものがあってなきような中で生きてきた肥後国の農民にとって、直接的に自らに恩恵をもたらさないものへの労働力の供出は、納得がいかないらしい。
季節は農閑期にあたっており、刈田と稲の天日干しも終わり、残っている作業としては玄米を俵に詰めるくらいだ。にもかかわらず、農民たちは労働力の供出を渋り続けた。
藤九郎は佐之助と手分けして郷村を回り、この普請役が地域全体を潤すものだと説いた。これにより実利のある高瀬周辺の農民たちは応じてきたが、問題はそれ以外の地域の農民たちだ。
彼らは大名の一元支配というものを理解できず、「どうして高瀬のために、われらが働かねばならんのか。それなら高瀬の町衆がやればよい」と言って人を出さない。つまり農村内では互いの利益のために協力し合えるが、他所の村のために働くという概念自体がないのだ。
藤九郎と佐之助は、「こうしたことは互いに助け合いなのです」と懸命に説いたが、彼らは「それなら、うちの村に得があることを、いつやってくれる」と言って開き直る。しかもこれまで、高瀬の町衆が作物を買い叩くなどして、農民たちに嫌な思いをさせてきたためか、あからさまに断ってくる村もあった。
──ここが我慢のしどころだ。
農民たちは大名権力というものを理解しておらず、言うことを聞かなければ首を刎ねられるとは、露ほども思っていない。
こうした農民たちの非協力的態度を大木兼能に訴え出れば、人を出さない庄屋の首を一つか二つ飛ばし、晒し首にしてくれるかもしれない。それによって郷村は、大名権力の恐ろしさを知ることになる。
だが藤九郎は、父の残した秘伝書の中にあった「人を無理に働かせることはできない。働くように仕向けるのも、城取りの仕事の一つだ」という言葉を忘れていなかった。
──どうすれば、働くように仕向けられるのか。
藤九郎は懸命に考えたが、なかなか妙策は思い浮かばなかった。
すでに鍬入れの儀は終わり、川筋の付け替え普請が始まっていた。だが集められた夫丸は五十人程度にすぎず、これでは進捗も高が知れている。すでに計画に遅れも出始めていた。
──こうした遅れは、農民たちのせいにすれば済む話かもしれない。だが関白殿下は、いかに無理なことでも知恵を絞って期限内にやり遂げてきた。それを知る殿は、わしに失望するに違いない。
これまで秀吉は、常人が無理と思えることを成し遂げてきた。秀吉は頭の回転が速いだけでなく、こうと思えば徹底的にやり抜く実行力があったからだ。
──だが、わしは関白殿下ではない。
藤九郎は秀吉になったつもりで、あれこれと知恵を絞ってみたが、いっこうに妙案は浮かばない。
──わしは常人なのだ。地道にやるしかない。
藤九郎は勢いよく立ち上がると言った。
「よし、大休止は終わりだ。仕事を始めろ!」
藤九郎の命に応じ、小者がけたたましく鐘を鳴らし、仕事の再開を夫丸たちに伝えて回る。
夫丸たちは大儀そうに身を起こすと、鋤やもっこを手にし、それぞれの持ち場に散っていった。
藤九郎も現場に向かおうとした時だった。
「童子が川に落ちた!」
菊池川本流の方から誰かが走ってきた。
「物頭様、川遊びをしていた童子が足を滑らせて深みにはまり、そのまま流されていきました!」
──こんな時に、何たることか!
一瞬そう思ったが、次の瞬間、藤九郎は大声を上げていた。
「童子が川に落ちた。皆で助けに行くぞ!」
藤九郎は現場に向かって走り出した。
菊池川河畔は目と鼻の先だ。駆けつけると、大人たちが寄り集まり、川面を指差しては何かを言い合っている。
その中には源内もいた。
「童子はどこにおる!」
「あそこです!」
源内の指し示した先では、十歳ほどの童子が川石の間に挟まった流木に摑まり、激しい水圧に耐えていた。
──あのままでは、すぐに流される。
「あれは弥五郎んとこの又四郎ではないか!」
夫丸の中の一人が声を上げる。どうやら近くの村から来ている夫丸の子供らしい。
「おい、弥五郎はどこだ」
「ここだ」
男が駆け寄ってくる。藤九郎と一緒に現場で作業をしていた一人だ。
「又四郎が流されたぞ!」
「何だと!」
「あれを見ろ」
皆がそろって川面を指差す。
「ああ、又四郎!」
男の顔色が瞬く間に変わる。
「又四郎、そのまま待っていろよ!」
男は褌一丁になると、川に飛び込もうとした。
「やめろ。この流れの速さでは救えないぞ」
藤九郎が背後から抱き止める。
「ああ、物頭様、あれはわしの一人息子です。行かせて下さい」
「早まるな。わしに考えがある」
そう言うと藤九郎は皆に大声で告げた。
「誰か、弓矢と太縄を探してこい」
「何をなさるんで」
源内が心配そうに問う。
「とにかくやってみるしかない」
しばらくすると、夫丸の一人が弓矢と太縄を持ってきた。
──よし、これでよい。
弦の張り具合を確かめた藤九郎は、鏃の根元に太縄を結び付けると、対岸に向かって怒鳴り声を上げた。
「岸から離れていろ!」
藤九郎は少年時代に弓矢の稽古をしたことがあるので、腕に多少の覚えはあるが、重い太縄を引きずった矢を、四十間(約七十三メートル)ほど離れた対岸に射られるとは思えない。
──とても無理だ。
藤九郎は自らの浅はかさを呪ったが、ほかに妙案を思いつかない。
「誰か、矢を射るのが得意な者はおらぬか!」
誰からも返事はない。農民たちは鉄砲に心得があっても、矢など射たことはないのだ。
「ああ、何卒、助けて下さい」
男が藤九郎にすがり付く。
「分かった。任せてくれ」
──勝負は一回きりだな。
もしも対岸に矢が届かなければ、太縄が水を吸って重くなる。そうなれば二度目以降は、とても対岸まで届かない。代わりの太縄もないので、勝負は一度だけだ。
「どうか、どうかお願いします」
傍らで父親が手を合わせている。
藤九郎が弓弦を引き絞ろうとした時だった。誰かが肩に手を掛けた。
集中力を削がれた藤九郎が文句を言おうとして首を回すと、そこに清正が立っていた。
「殿!」
「わしに任せろ」
「はっ、はい」
藤九郎が清正に弓矢を渡すと、清正は片肌脱ぎになり、弦の張りを確かめた。
「よし、これなら行ける」
清正が弓を引き絞る。赤銅色の肌に筋肉が浮き立ち、弦が悲鳴を上げる。
次の瞬間、矢は鷹のように対岸に飛んでいった。皆が息をのむ中、高々と上がった矢が落下し始める。
──頼む!
矢は放物線を描きながら落ちていくと、見事に対岸に到達した。
──やったぞ!
だが感慨に浸っている暇はない。
「後はお任せ下さい」
そう言うと藤九郎は、太縄を源内に託した。
「これを丈夫そうな木にくくり付けろ」
源内が太縄の端を持って河畔の大木に走る。
対岸でも大石に太縄を巻き付けている。
瞬く間に川の上に太縄が張られた。
「皆、太縄を思い切り引いていてくれ!」
周囲にいた者たちが太縄に取り付く。対岸でも同じようにしたので、太縄がぴんと張られた。
藤九郎が褌一丁になった時、清正から声が掛かった。
「用心しろ。菊池川の力は強い」
「分かりました!」
己の体に命綱を巻き付けた藤九郎は、その端を輪にして太縄に結ぶと、童子用の命綱を袈裟に巻いて太縄を摑んだ。
──行くぞ!
藤九郎は大きく息を吸うと、川に足を踏み入れた。
とたんに体を持っていかれそうになる。
次の瞬間、深みにはまった。
──これくらいなんだ!
藤九郎が頭を川面に出すと、岸から歓声が沸いた。
──ここからが勝負だ。
藤九郎は太縄を伝い、十間(約十八メートル)ほど先にいる童子の許に向かった。
清正が言った通り、下半身が凄まじい力で持っていかれそうになる。
「待っていろよ!」
やがて童子の顔が見えてきた。
すでに泣くこともできないのか、恐怖に顔を引きつらせている。
「よし、わしに摑まれ!」
藤九郎が手を伸ばすと、童子も小さな手を伸ばしてきた。
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