次郎長がために土蔵に閉じ込められた小富、「自分は殺されるに違いない」と思い込み、土蔵のなかで暴れた。けれど頑丈な土蔵はびくとも動かない。
恐怖で頭が痺れたようになった小富は鉄格子がはまった土蔵の窓に取りすがり、ありたけの声を張り上げて、
「殺されるううううっ。助けてくれえええっ」
と繰り返し絶叫した。
この絶叫が近隣の人の耳に入る。最初のうちは、
「おや、なんだかケダモノが吼えているような声するような。しかしまあ気のせいだろう。なぜならこのあたりにケダモノは居ないから」
と思って聞き流すのだけれども、暫くするとまた聞こえる、そのうちに、「どうやら人の声らしい」と気がついて、そのつもりでよく聞くと、
「殺される。人殺し」
なんて言っている。「これは穏やかじゃない」ってことになり、また野次馬根性もあって、声のする方向へ行くなれば、声は次郎長方の土蔵から聞こえてくるようだ。近くまで行って見ると、異様の声を聞きつけた近所の人が集まっている。
「なんでしょうね」
「行ってみましょう」
と、皆でゾロゾロ土蔵の前まで言ってみると確かに中から、助けを求める必死な声が聞こえてくる。
人々は、
「どういうことでしょうか」
「殺されるって言ってるんだから殺されるんでしょうね」
「どうしましょう。助けますか」
「いやあ、でも鍵もないし」
「ですよね。困りましたね」
「でもおもしろいからもう少し見てましょうか」
「そうですね。取りあえず、私、ここの家の人に聞いてきます」
「お願いします」
など言いながら土蔵の前に屯している。そもそも疑心に暗鬼が生じている小富は、窓からこの様子をのぞき見て、己を助けに来た人とは思わず、いよいよ己を殺すために人が集まってきた、と思い込み、
「ぴゅゅゅゅゅゅゅゅゅゅゅゅゅうううううううううううううううー、人殺しいいいいいいいいいいいっ、助けてくれええええええっ」
と、先にも増して暴れ叫び、戸をドンドン叩いて狂い回り、それを聞いてまた、人が集まってきて、ついに次郎長方の土蔵の前は黒山の人だかりと成り果てた。
それへさして、夕方まで時間を潰そうというので昼酒を飲み、食らい酔って陰嚢を出すなどして巫山戯《ふざけ》ていたが、そのうちダレて、
「まだ少々、明るいが、かまうことねぇ、やっちまおうじゃねぇか」
と言う飯金にいざとなると事に慎重な次郎長が、
「ま、とにかく一旦、おれっちの家に行って。様子を見よう」
と言って、飯金を引っ張ってきた。
そうしたら土蔵の前に人が溢れて、土蔵の中から、「人殺しー」という小富の叫び声が聞こえてくる。
「あー、こりゃダメだ。こんなに人目があるなかで小富を巴川まで引っ担いでいくことはできねぇ。失敗した」
と思うから、集まった群衆に、
「あー、みなさん、どうもお騒がせいたしました。いやー、実はうちにコソ泥が入りましてな。いえ、大丈夫でございます。なにも盗られる前にわっしが捕まえて、ここに閉じ込めておきましたので。ええ、まあ彼奴もこれで懲りたことでございましょう。家から縄付きを出すのもなにでございますから今日のところはこれで勘弁してやろうと思います。わっしがこれから戸を開けます。そしたら野郎、走って逃げていくでしょう。どうか手荒なことはせずに見逃してやっておくんなさいまし」
と言うと、庭から座敷に上がり蔵の鍵を持って戻ってくると、
「開けますぜ」
と群衆に断ってこれを開けた。そうしたところ。
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