第一章 蛇目紋の家
一
尾張国愛知郡中村には、これまでにないほどの人が集まっていた。
四半里(約一キロメートル)は続いているかと思われる列の最後尾に並びつつ、藤九郎は後悔し始めていた。
──この人数では、仕官などとても無理だ。
だが藤九郎は、石にかじりついてもこの機会を逃したくなかった。
──仕官せねば、一家は食べていけない。
青々とした水田を眺めつつ、藤九郎は甲賀の里で畑仕事にいそしむ母や弟妹のことを思った。
安土城が落城した時、父の指示に従い、持てるだけの家財を持ち、いち早く逃げ出したのが幸いし、一家はそろって甲賀にたどり着いた。後で聞いた話だが、逃げ遅れた者たちは火事に巻き込まれるか、明智勢に略奪されるかして、散々な目に遭ったらしい。
だが甲賀に着いてからもたいへんだった。当初は親戚の家に身を寄せたものの、長居はできない。そこで母は小作となり、藤九郎と共に泥にまみれながら農作物を作った。それでも一家四人が食べていくのはやっとで、稗粥をすすり、芋をかじるようなぎりぎりの生活を強いられた。
そうした生活から脱するには、武士になるしかない。
──待っていてくれよ。
空は晴れわたり、鳶が数羽、のんびりと飛んでいた。
天正十五年(一五八七)五月、豊臣秀吉は長年の仇敵だった佐々成政に肥後一国五十四万石を与えた。かつて成政は越中一国七十三万石の大身だったが、賤ケ岳の戦いで柴田勝家に味方し、小牧・長久手の戦いでは織田信雄・徳川家康陣営に与したため、秀吉によって改易に処され、御伽衆に加えられていた。ところが成政を側近く使ううち、秀吉は成政が優秀なことに気づき、肥後一国を預けることにしたのだ。
秀吉はこの時、「肥後の国衆はうるさいので、三年間は検地をせず、融和策を貫くように」と、成政に申し渡した。しかし肥後に赴任した成政は自らの蔵入地(直轄領)がないため、家臣たちに知行を割り振れない。そこで密かに検地に着手した。
ところがこれに反発した国衆は反乱を起こし、成政だけでは鎮圧できなくなる。これを聞いた秀吉は、この時に行われていた北野大茶湯を中止にし、九州諸大名に出兵を命じた。
二万余の軍勢に踏み込まれては、いかに屈強な肥後国衆でもひとたまりもない。瞬く間に反乱国衆や同調した百姓一揆は鎮圧された。
降伏してきた国衆を次々と斬首刑に処した秀吉は、喧嘩両成敗の掟から、成政に切腹を命じた。これにより佐々家は、肥後入国から一年と経ずに改易となった。
乱の鎮圧後、秀吉は黒田孝高、浅野長政、加藤清正の三人に二万の兵を付けて肥後に派遣し、検地を執り行った。
しかし新たな問題が持ち上がった。成政の改易があまりに突然だったので、肥後一国を治められる適任者が見当たらない。そこで秀吉は子飼い家臣の中から抜擢することにした。
白羽の矢が立ったのは、加藤清正と小西行長の二人だった。
秀吉は肥後を二分し、北半分を清正に、南半分を行長に与えた。清正が十九万五千石、行長が十四万石余である。尤も行長には父祖から引き継いだ交易の利権があるため、財政的には清正よりも余裕があった。
一万石から十四万石の主となった行長も大きな加増を受けたことになるが、それまで三千石の知行しかもらっていなかった清正は、おおよそ六十五倍もの知行を得たことになる。
この時、行長は三十一歳だが、清正は二十七歳にすぎず、その年齢からしても、まさに古今未曽有の出頭となった。
それまでの清正は、三千石の知行で百七十人の家臣を養っていた。足軽・中間・小者を含めても、一千人にもならない。そこで清正は、故郷の尾張で武辺者や何かに長じた者を家臣として召し抱えた上で肥後に行くことにした。
故郷中村で行われた募兵考試には、各地から浪人たちが押し寄せてきた。
やがて田園が途切れ、藤九郎の並ぶ列は町屋の連なる一角に入った。
藤九郎のいる位置からも、ようやく考試の行われている会場が見えてきた。
考試と言っても、それほど難しいことを求められているわけではない。武士ならば槍さばきや鉄砲の弾込めをやらせてみて、その練度で採用の可否を決める。また、それまでの経歴や経験も勘案され、それによって知行高が決まる。
一方、吏僚の場合は算盤の速さを競わせるわけにもいかないので、自己申告による経歴が重視された。もちろん嘘を言っていれば、肥後に行った後に放逐されるので、虚偽申告する者はいない。
考試場の中からは「えい」「やあ」という気合が聞こえるので、どうやら槍の試技が行われているらしい。
ようやく入口付近に達すると、武技を見せる者と吏僚希望者に分けられた。
もちろん藤九郎は吏僚の列に並んだ。
考試の場には砂利が敷き詰められており、広縁の上に座した役人が、広場に拝跪する仕官希望者に、様々な問いを発している。
「分かった。仕官を許す!」
「せっかくご足労いただいたのだが、お雇いできぬ」
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