なぜ嘘をつくのか
自分は会話の中に嘘を盛り込むのが好きで、それはもちろん、寄せられた人生相談の内容を根拠なく嘘と決め付けたりするようなことではなく、目の前にいる人との会話に嘘を混ぜ込み、その場で「嘘でした」と明らかにして呆れられる、という流れを繰り返してきた。信頼している相手は、「ハイハイ、またそれね」と受け流してくれるのだが、そもそも、どうして自分はどうでもいい嘘を会話に盛り込むのだろうかと考え始めたら、樋口桂子『おしゃべりと嘘 「かたり」をめぐる文化論』(青土社)という本と目が合った。
こうある。嘘は、詐欺のような大きな嘘ではない場合、「しゃべる」という行為によって顔を出すことが多い。嘘を形容するにあたって、つく・たれる・こくなど、自分から「排出すること、排泄する言葉をともなう」のは、あくまでも嘘が、他者に向かうのではなく自己完結しているから、とも受け取れるとのこと。柳田国男によれば、「昔から日本人は『笑ってよい嘘』と『憎むべき嘘』を区別していた」そうで、「相手をだましてやろうという目的がない嘘は『底のたくらみがない』笑ってよい嘘であるとして、大いに使われていた」。日本語では「ウッソー」や「え、うそ!」が、相手への指摘ではなく、合いの手として機能しているが、それは、英語の「lie(嘘)」が示すところと大きく異なる。「ウッソー」を英語にして、合いの手のつもりで「ユーアー ライヤー」と言ったら大変なことになる、との指摘。なるほど確かに。その英語を改めて「あなたは嘘つき」と和訳すれば、それはやっぱり大変で、とても乱暴なことだ。
上沼のホラ話が体に染み込んでいる
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