鬼滅の刃』に学ぶ子育ての極意?!「俺は俺の責務を全うする!」

突然の離婚により、娘ふたりを育てることになった女装が趣味の小説家。「シングルファーザー」になってみると、彼にはこれまで想像もしなかったことが待ち受けていた……。今回は、仙田さんが子どもたちと一緒にハマっているという『鬼滅の刃』について語ります。

子育て世代の親とその子どもたちに刺さる『鬼滅の刃』


映画「劇場版「鬼滅の刃』無限列車編」の上映館で頒布された冊子

株式会社アニメイトの調査によると、『鬼滅の刃』は幅広い年齢層に支持されているが、とりわけ10代と40代に人気があるらしい。
いわゆる子育て世代の親とその子どもが当てはまる年代で、私と娘たちも例外ではない(娘たちはまだ6歳と8歳だが)。

なぜ『鬼滅の刃』は子育て世代の親とその子どもたちに刺さるのだろうか?
それは、成長過程にある子どもたちがこれから知ることになるだろう、善悪とは何か、強者や弱者とは何かということなどについて、感情に大きく訴えかけながら教えてくれるからだと私は考える。
今回は、その理由を述べていきたい。

※以下ネタバレを含みます。

私が『鬼滅の刃』を初めて知ったのは今年の春で、学童で流行っていると長女から聞いたのがきっかけだった。
善逸、禰豆子、炭次郎などのキャラの名前を子どもたちがよく口にするようになり、興味を引かれた私は、その頃に加入した動画配信サービスでアニメ版を観ることにした。

ちょうど緊急事態宣言がだされて自粛ムードが高まり自宅で過ごす人が増えていた時期で、私と似たような経緯で『鬼滅の刃』に触れた人も多いのではないだろうか。
動画をテレビ画面で観るための機器がその頃品薄で、どこのネット通販サイトでも在庫がなかったので、近所の家電量販店で取り寄せを頼んだところ、届くのに1ヶ月ほどかかったのだ。

子どもたちと一緒に毎晩2、3話ずつ観ていったが、我を忘れて入りこんでしまうくらい面白く、3人とも無言でテレビに齧りついていた。1ヶ月ほどかけて全26話を3回繰り返して見終わると、今度は原作を読みたくなった。

日曜日になるたびに本屋に行って4、5冊ずつ買い、帰るやいなや3人で奪いあうようにして読み耽った。
全ての漢字にルビが振ってあるので長女はすらすらと読めるし、保育園年長組の次女もゆっくりとではあるが読み進めている。
何度か繰り返して読み、それ以後は気が向いたときに好きな巻だけ選んで読んでいるという長女に、どの巻が好きなのか聞いてみたところ、こんな答えが返ってきた。

鬼たちの過去に惹かれる長女


長女が描いた禰豆子

—5巻と11巻と18巻。累(るい)と妓夫太郎(ぎゅうたろう)と猗窩座(あかざ)の話が好き。
—なんで好きなん?
—みんな家族やきょうだい思いで、強い絆があるところが、読んでてすごくいいなと思った。

累と妓夫太郎と猗窩座は、それぞれ主人公の敵役の鬼の名前だ。
『鬼滅の刃』の物語は、ある日とつぜん人食い鬼に家族を殺され、妹を鬼にされた炭次郎が、妹を人間に戻し、家族の仇を討つために剣技を磨き、「鬼殺隊」に入って鬼を倒す旅にでる、というもの。

面白いのは、鬼もかつては人間で、多くの者はとても辛い経験をしているという点だ。
鬼たちは人間だった頃の記憶を失っているのだが、何体かの鬼は、炭次郎たち鬼狩りに首を切られて死ぬ寸前に記憶を蘇らせる。

人間だった頃、累は生まれつき病弱な子どもだった。
鬼と出会うことによって人食い鬼になり、強い体を手に入れたものの、両親は喜ばないどころか累を殺そうとした。
身を守るために両親を殺した後に、ふたりは我が子を殺して自殺しようとしていたらしいと累は気がつく。
そして完全に記憶を失ってからも、後悔と両親恋しさから、他の鬼を集めて偽りの家族を作っていたのだ。

激闘の末に先輩の義勇に助けられて累を倒した炭次郎は、累の着物を踏みつけにした義勇に、足をどけてほしいと頼む。
—醜い化け物なんかじゃない。鬼は虚しい生き物だ。悲しい生き物だ。
つまり、炭次郎は多くの人を殺したという、鬼の行為には怒りを向けるが、その存在そのものは肯定しているのだ。

妹の堕姫とともに人間を襲う、妓夫太郎に対してもそうだった。
遊郭の貧しい一画に生まれた妓夫太郎は、貧しさと容貌の醜さから忌み嫌われて育った。
だが類まれな美貌を持った妹が生まれてからは劣等感が吹き飛び、取り立ての仕事を始めるようになった。

ところが人生がうまく回り始めたと思った矢先に、客に暴行を働いた罪で、妹が火あぶりにされてしまう。
たったひとつの心の拠りどころを失った妓夫太郎は鬼と出会い、瀕死の妹とともに鬼になることを決めたのだ。

炭次郎たちに首を切られて死ぬ寸前に、妓夫太郎と堕姫は醜く罵りあう。
その口を炭次郎は押さえて、「仲良くしよう」「たった二人の兄妹なんだから」と語りかける。
—君たちのしたことは誰も許してくれない。
—味方してくれる人なんていない。だからせめて二人だけは、お互いを罵り合ったら駄目だ。

おそらくここで炭次郎は、自分たち兄妹の姿をふたりに重ねている。
貧しくとも幸せだった日常が鬼によって断ち切られた炭次郎と妓夫太郎たちはある意味正反対な立場にあるわけだが、それでも兄妹のあり方としては同じだと見抜いているのだ。

どちらも辛い経験をしていながら、一方は鬼になり、もう一方は鬼を狩る側になった。
どんな選択の結果、このように道が分かれてしまうのだろうという問いが、ここでは投げかけられている。

悪の論理と人としての尊厳

善と悪の奇妙な対称性は、猗窩座が人間だった頃の物語のなかでさらに浮き彫りにされる。
病気の父親のために窃盗を繰り返していた猗窩座は、そのことが原因で父親が自殺してしまったことをきっかけに自暴自棄になる。

そして町なかで乱闘していたところを武道家の慶蔵に殴られて止められる。
そのまま慶蔵の道場に拾われて、慶蔵の娘の恋雪の看病をしながら稽古をつけてもらううちに、道場を継ぎ、恋雪と結婚することになる。

ところが家を空けていたある日、慶蔵親子が毒殺されてしまう。
猗窩座は絶望のあまり、手を下した隣の道場の門下生67人を殺害し、鬼になる。

猗窩座の絶望は、鬼に家族を殺された炭次郎の絶望とほとんど同じ類のもので、だからこそ猗窩座は、戦闘のなかで炭次郎に殴られたときに、かつて慶蔵に殴られてこう言われたことを思いだすのだ。
—生まれ変われ少年。
—罪人のお前は先刻ボコボコにしてやっつけたから大丈夫だ。

この3体(4体)の鬼の、あまりにも「人間」的なエピソードを長女が気に入り、そこから鬼たちの家族への思いや絆を感じ取っていることが私は嬉しい。

善悪の判断基準は相対的なものでしかない、あるいは悪とみなされる側にもそれなりの論理があるということだけでなく、許されない行いをした人がいた場合、その行為は責められるべきだとしても人としての尊厳は損なわれないということを、物語の底から掴んでいるのだとわかるから。

子育てにおける「自然の摂理」と「責務」

鬼だけでなく、鬼を狩る「鬼殺隊」の側の論理も余すことなく描かれている。
「強い者は弱い者を守るのが責務である」というその論理は、多くの子どもたちを意識的にせよ無意識的にせよ惹きつけるのではないだろうか。

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女装パパが「ママ」をしながら、家族と愛と性について考えてみた。

仙田学

突然の離婚により、娘ふたりを育てることになった女装趣味の小説家。「シングルファーザー」になってみると、彼にはこれまで想像もしなかったことが待ち受けていた。仕事と家事・育児に追われる日々、保育園や学校・ママ友との付き合い、尽きることのな...もっと読む

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コメント

noriatsu_vina08 #スマートニュース 26日前 replyretweetfavorite

spelunker31 #スマートニュース 27日前 replyretweetfavorite

sendamanabu 鬼滅の刃では炭次郎や柱より鬼のほうが好き!!という長女と会話しながら考えたことを書きました! https://t.co/gF4Mz0a6wa 約1ヶ月前 replyretweetfavorite