(前回からのつづき)
「不倫」を定義する
『蒲団』が扱うもう1つの重要なテーマは「不倫」です。不倫とは、様々な定義が考えられますが、まず「既婚者」が行なうものであることは間違いないところです。
18世紀のドイツの哲学者、イマヌエル・カントによれば、婚姻とは夫婦の性器を「相互的に占有する」関係となります。この定義にしたがい、
不倫とは、既婚者が配偶者以外の人と性行為を行なうこと
とします。精神的な浮気や、手をつなぐ、キスをするといった行為は含みません。
こうした不倫は、現代の世の中に蔓延しています。また古来より日本では、不倫を言い表 す、「不義密 通」「姦通」「姦淫」「不貞」「よろめき」「野合」「道ならぬ恋」「桑中之喜」「密懐」「密会」といった多彩な言葉が存在しますので、時代を超えて横行するものであったこともわかります。
「不倫は文化」とはかの石田純一の有名な言葉ですが、実際には不倫はすべての国籍、人種、文化、歴史を超えて普遍的に見られる現象なので、どこか固有の国の文化的産物というより、遺伝子に根差した欲求と考える方が自然です。「不倫は遺伝子」なのです。
結婚制度は人間がつくりだした社会制度です。一方、不倫は遺伝子の欲求です。この両者の間で葛藤するのが、わたしたち人間ということになります。ただし、不倫は秘匿が原則なので、表にはなかなか出てきません。『蒲団』はわたしたちの隠された願望を明らかにした点でも意義のある小説だと言えます。
ただし『蒲団』は「不倫小説」ではありません。あえて言えば「不倫願望小説」です。時雄は不倫の妄想をしていましたが、実行はしませんでした。行為に及ぶか及ばないかは大きな違いです。実際に及んでいたら、もっと違った小説になったでしょうし、明治時代にあっ ては社会的な拒絶にあってたいへんな事件になっていたに違いありません。『蒲団』は不倫しなかったからこそ名作になったのです。
不倫には「方程式」が存在する
不倫するかしないかを決める場合、実行者は用意周到なシミュレーションをします。不倫したらどんなにすばらしいか、あるいは自分は秘密にするが相手は大丈夫か、発覚した場合には配偶者からどのようなペナルティが待っているのか——。時雄の場合も妄想を通じていろいろな場面を想定しています。
繰り返しになりますが、時雄には芳子に対して不倫願望はあっても、行為には及んでいません。手をつなぐこともキスもしようとしませんでした。
どのような計算があったのでしょうか? 不倫をするかしないかの意思決定は、実は方程式にすることが可能です。方程式をつくるには、以下の4つの変数を考慮することが不可欠になります。
a.不倫から得られる利得
最大のリターンは性行為がもたらす快楽、スリル、および一時的ではあるものの相手を保有できることです。露木幸彦が『みんなの不倫』(宝島SUGOI文庫)で指摘しているように、不倫相手には性行為というリターンのほかに、恋愛的メリット(=恋愛バブル)、精神的メリット、逃避的メリットが同時に存在しているということになります。
b.発覚する確率
不倫を実行する場合、発覚する確率を計算し、最悪の事態に備えておくことが重要になり ます。
c.発覚後のダメージ
不倫が配偶者に見つかった場合、単なる叱責から、物質的・金銭的補償、さらには別居、離婚といった強硬手段に訴えられるケースまであり、さらには配偶者や子どもの心を傷つけるといった場合も考えられます。また不倫が発覚した後に、不倫相手と会えなくなるというのも大きなダメージの1つです。
d.倫理観
倫理観があれば、不倫は自制するものです。逆にこれがなければ、人は簡単に不倫に至ります。倫理観というものは、その人のもつ生来的なものと、これまでの人生で受けてきた教育や経験によります。また不倫した後の罪悪感をどの程度いだくかもこの変数に含まれます。
以上の変数を考慮に入れて「不倫の方程式」を作成すると、以下のようになります。
不倫の意思決定=(不倫で得られる利得)-[(不倫発覚の確率)×(発覚後のダメージ)+(倫理観)]
この方程式がプラスになれば不倫に至り、マイナスになれば不倫しない、という意思決定になります。不倫に及ぶ場合はそこで得られる利得が決め手となり、その逆に、不倫を思い留まらせるのは発覚した際に被るダメージ、および自分の心に内在している倫理観しだいということになるのです。
時雄はなぜ不倫を思い留まったのか?
時雄には不倫願望がありましたが、最後まで行為に及ばなかったということは、上記の方程式で言えば、マイナスになったからです。
なぜマイナスになったのでしょうか? 第一の利得については、時雄にはたくさん存在しました。結婚生活が平凡になり、妻にも飽きていたので、大きな刺激を欲していました。その刺激として「出来るならば新しい恋を為たいと痛切に思った」とあるので、恋愛バブルによって倦怠感を払拭したかったわけです。
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