有限の時間をどう生きるのか
最近でこそ、少しは我慢できるようになったが、僕は無駄話をされるのが嫌いだ。
ライブドア時代など、商談の席で判を押したように「いやぁ、昨日までの雨が嘘のようで」などと天気の話から始められると、本気でイライラしていた。そんな中身のない挨拶はどうでもいいから、さっさと本題に入れ。無駄な時間を費やすな。不機嫌さを隠そうともしなかった。
なぜそんなに苛立っていたのか?
時間とは、「命そのもの」だからだ。なんの実りもない無駄話に付き合わされることは、命を削られているに等しい。
タイム・イズ・マネーという言葉は間違っている。お金なら増やすことも可能だ。
しかし、時間だけは誰にも増やすことができない。まさしく有限の「命そのもの」であり、タイム・イズ・ライフなのである。
もちろん僕だって、遊びもするし、ゴルフや飲みにも行く。さすがに仕事のことだけを考えて生きているわけじゃない。でもそれは「ゴルフをすること」や「お酒を楽しむこと」に集中する時間であって、無駄なことに費やすのとは違うのだ。
だからこそ、僕らは「自分の時間」を生きるのか、それとも「他人の時間」を生かされるのか、を常に意識化しておく必要がある。
営業マンの無駄話に付き合わされるとき、あなたは「他人の時間」を生きている。
大好きな仲間と飲みに行くとき、あなたは「自分の時間」を生きている。
与えられた仕事をやらされているとき、あなたは「他人の時間」を生きている。
自ら生み出す仕事に臨んでいるとき、あなたは「自分の時間」を生きている。
いずれの時間も、刻一刻と過ぎていく。今日という日に与えられた24時間をどう振り分けるか、という話だ。
若いとき、たとえば19歳や20歳くらいの間、人は自分が歳をとる姿をうまく想像できない。自分だけは歳をとらないような、この若さが永遠に続くような錯覚にとらえられる。もしかするとあなたも同じ感覚でいるかもしれない。
しかし、時間は永遠ではない。残酷なほど有限なものだ。
その有限なる時間を、命を、どう使っていくのか。いかにして無駄を減らしていくのか。そこをもっと真剣に考えるのだ。
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