(前回からのつづき)
漱石の恋愛描写は納得できるものか?
このバタフライ効果に鑑みて、先生とKの恋愛に関する意思決定のひとつひとつがどのような理由で行なわれたのかについて詳細に検討する必要があります。とくに二人が自殺するに至ったターニング・ポイントは何だったのかについて考えてみると、この小説がよくわかります。漱石はこの点を非常に腐心して書いたようですが、わたしたち現代人にはどうしても理解できない、腑に落ちない点も浮き彫りになってきます。
したがって、ここで考察したいのは、
1.登場人物は恋愛の分岐点で、どのような意思決定をしたのか?(漱石はどのような理由づけで恋愛の意思決定を描写しているのか?)
2.その意思決定は現代に生きるわたしたち読者によって納得できるものか?(わたした ちも先生やKの状況に置かれたら、同じ行動をとるのか?)
の2点です。
このような観点から先生とKの恋愛行動を検討しますが、『こころ』の中でわたしたちが違和感を覚え、必ずしも納得できない点は以下の6つになると思われます。
①御嬢さんに恋しても、先生が何も行動を起こさなかった
まず奇異に思えるのは、なぜ先生は、御嬢さんに恋愛感情をいだいた時点で、デートに誘うとか告白するといった行動を起こさなかったかということです。この点について『こころ』の文脈を整理すると、漱石はおそらく以下のように辻褄を合わせていると思われます。
まず先生は、御嬢さんに出会うと、すぐに恋愛バブルが生じました。「信仰にも似た恋愛」、つまり片想いをずっと続けます。片想いが長く続くと、ますます自分の気持ちを伝えることができなくなるものです。現代のわたしたちとこの点はなんら変わりません。
当時の時代背景も告白を困難なものにしていました。当時は二人きりのデートはおろか、街中を若い男女がただ歩くことも他人からいぶかしげに見られる時代でしたから、デートによって相手の気持ちを確かめるということすら難しかったのです。デートもせず、手もつながず、キスもせず、プラトニックのまま一生の伴侶を決めなければならなかったわけです。
ですから、好意を伝える告白は、結婚したいという意思表示と同じでした。とはいえ、御嬢さんをすぐ妻にしたいという決断はなかなかできるものではなかった。先生は当時まだ東京帝国大学の学生だったということもあり、できれば卒業が間近になったときに告白したいと思ったはず——。
なるほど。漱石の描写はいちおう筋が通っているようです。しかし、わたしは以下のように反論したい。
片想い→結婚の時代であったとしても、御嬢さんを好きになった時点でなんらかの求愛行動があってもよいものです。なんらかの行動とは、相手である御嬢さんが自分のことをどの程度好きかを確認する行動、および御嬢さんに自分のことを気に入ってもらうための行動の2つであり、どちらもごく日常的な会話がきっかけになるものです。
たとえば、毎日御嬢さんの琴や生け花に触れる機会はあったわけで、そのときに一言、「上手ですね」と褒めることができれば、御嬢さんの承認欲求も満たされ、楽しい会話につながったはずです(これはモテテクニックの1つで「自己肯定戦略」と呼ばれている)。あるいは、二人きりになったときに「お茶を一杯、いただきたいんですが」と話しかければ、上手に二人の時間をつくりだすこともできます(「戦略的服従」)。
また、御嬢さんが自分のことをどう思っているかについても知っておきたいところです。 たとえば、「いつもお世話になっています。ご迷惑をおかけしていませんか?」(「アドバル ーン戦略」)とか、「何か勉強でわからないことがあったら言ってくださいね」といった言動 (「補完性戦略」)でも自然です。このように相手にボールを投げて、相手がそれをキャッチして、どのように投げ返してくるかで、相手の自分に対する気持ちはある程度測れるものです。
ところが残念ながら先生にはそういう言動が一切ありませんでした。これは当時としてもやや不自然な描写だと言わざるをえません。
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