イラスト:澁谷玲子
©うえやまとち/講談社
日本には料理が得意なニュー・ダッドがいる
日本にニュー・ダッドはいるのだろうか。
「あたらしいおっさん」なんてものをブチ上げてみたものの、この国に当てはめて考えてみると案外思いつかないものである。たとえばファミリーものの有名漫画をいくつか考えてみても、あの親父は家庭内の振る舞いがわりと旧来的な性役割そのままだなとか、あの父ちゃんは若い姉ちゃんに鼻の下伸ばしてばっかりだなとか、どうも「これだ」と確信できるおっさんがいない。「おっさん感」と「あたらしさ」が両立しているのがニュー・ダッドなので、平均的な中年男性像が「父」に採用されやすい日本の家族ものでは、なかなか「あたらしさ」は出てきにくいのかもしれない。
……いや、ひとり挙げるならあの男しかいない。あの男はずいぶん長い間この国にいたが、思うにいまも「おっさん」と「あたらしさ」を両立させている。クッキングパパである。
説明不要だろうが、『クッキングパパ』は連載35年以上続く長寿グルメ漫画。見た目はいかつく無骨だが、料理が得意で家庭的な男・荒岩一味(かずみ)を中心とした家族模様・人間模様が温かく描かれる。
連載が開始した80年代なかばから一味はサラリーマンをしながらゴリゴリに家事・育児をこなしており、当時としては圧倒的に「あたらしいおっさん」としての存在感を放っていたと思われる。『クッキングパパ』というタイトルがそのまま目を引くキャッチコピーになるのは、「パパはふつう家庭で料理をしない」という前提が長くこの国には存在したからだろう。そしてそんな彼の姿は、現代においても男性が家事をするときのひとつの指針になりうるのではないだろうか。
……という分析は別にして、正直、僕は男性として一味に魅力を感じている。広い肩と背中(脱ぐとけっこうなマッチョ&胸毛)が醸す、圧倒的な包容力。逞しすぎるアゴが支える、穏やかな笑顔。とてつもない料理の腕と、それを家族だけでなく、ありとあらゆる人びとに分け隔てなく振る舞う大らかさ。チャラチャラ遊んでそうな不良オヤジなんかよりも、断然色っぽいのである。いやあ、海の向こうに頑張って探さなくても、この国にもこんなイケダッドがいたんですなあ。
料理と大いなる喜びが織りなす「クッパパ宇宙」
とはいえ、僕は子どもの頃観たアニメの記憶が断片的に残っていたり、ときどき連載を読んだりしていた程度のぬるいファンなので、あらためてはじめからまとめて読んでみることにした。巻数にして154(2020年9月現在)。さすがに僕が赤ん坊の頃からやっている連載だ、とんでもない量である。これは大変なことになるぞと覚悟して読み始めたのだが、これが不思議とほとんどノンストップで楽しめてしまう。お、おもしろい……。
とにかくページをめくってもめくっても料理が作られ、大いなる喜びとともに分かち合われる。料理に次ぐ料理。喜びに次ぐ喜び。一味を中心とする人びとの繋がりが30年以上かけて「クッキングパパ・ユニヴァース」を生み出し、ありとあらゆる人間の人生の問題はすべて料理によって解決していく……。
その繰り返しの心地よさ。あふれ出すポジティヴ・フィーリング。ああ、ここで描かれているのはグルメを巡る一種のユートピアなんだと、僕はほとんどサイケデリックな体験として『クッキングパパ』を読み続けたのだった。
何より一味の魅力、というかパワーがすごい。新聞社で働く妻・虹子は当初料理下手であったこともあり、荒岩家ではおもに一味が料理を担当しているのだが、自分だって忙しい会社員である。昼間は会社でバリバリ働きながら、家族のために家事もバリバリやってのけるスーパーマンなのだ。残業の合間にバイクを飛ばして一時帰宅し、子どものためにチャチャッと夕飯を作り、またバイクを飛ばして会社に戻って仕事をする、なんてこともあるハイパーぶりだ。
それに、一味の料理に対するこだわりは一般的な料理好きの域をはるかに超えている。馴染みの店の厨房に入って独自のアイデア料理を振る舞うなんてことは当然のこと、はじめて入った店で(海外でも!)キッチンを借りてプロ顔負けの料理を披露することさえある。素朴な家庭料理からオリジナル・スイーツ、豪勢な宴会料理もウェディング・ケーキだって作ってみせる。
僕がとくに好きなのは、タフな一味が珍しく二日酔いになっているのを押して、二日がかりでコンソメスープを作る回だ。肉や野菜を豪快にたっぷり入れたスープは最終的に透明に輝く液体へと昇華され、それを味わった妻・虹子も息子・まこともあまりの美味に恍惚の表情を浮かべて「ああ……」としか言えなくなってしまう。いや、それ、料理好きなお父さんとかそういうレベルじゃないから!
クッキングパパはファンタジーに過ぎないのか?
だから、『クッキングパパ』を現実に家庭での家事分担の話に置き換えたとき、なかなか一味のようにはいかないというのがふつうだろう。ひとによって家事にも得意不得意はあるし、体力的にも時間的にも余裕がないというひとや家庭も多い。もちろん経済的な問題もある。料理に毎度手間暇をかけるなんてことは、なかなかできるものではない。
共働きのカップルが主流になるなかで家事を担当する男性も増えてきつつあるが、その分担をどうするかで揉めることもしばしばだろう。家事をする夫が妻に対して「自分はこれだけやってるんだから、あなたもこれだけやってくれ」と強いプレッシャーをかけたり、あるいは夫婦の収入の差をあげつらって家事労働の分量をドライに決めたりするような殺伐とした話もしばしば聞く(日本社会では構造的な男女の賃金格差が根強いにもかかわらず)。
むむむ……。料理をはじめ家事が「負担」になりうる現実では、『クッキングパパ』の世界はあくまでファンタジーでしかないのだろうか?
ただ、一味はありえないぐらい料理が好きな男とはいえ、『クッキングパパ』の世界でも家事が日常の一部であることには変わりない。そこは一般の家庭と同じである。そしてそのなかで、一味はあくまでも料理を「家族や周囲の人びとを喜ばせられる機会」だと捉えている。その気の持ち方は、ほんの一部だけでも見習えるのではないか。
とりわけこれからの時代、男性にとって家事・育児を「やらなければいけないこと」が増えたと捉えるのではなく、「あたらしい機会」が増えたと捉えることで男性の人生の幅も喜びも増えるのではないだろうか。家事は自分を充足させることもできるものなのだ、と。
実際、一味は家族のためだけでなく、自分ひとりで過ごすときも料理を楽しんでいるし、凝った料理をするにはじゅうぶんな時間がない場面では、いまでいうところの「時短レシピ」で「負担」を減らすような現実的な工夫もしている。
一味は家族・友人やご近所、同じ会社に勤める仲間だけでなく、街で偶然出くわした事情ありの人びとにも料理を振る舞うおそるべき男だが、僕がとくに好きなのは近所のおじいちゃんたちを生徒にした料理教室を趣味で開いているところだ。妻に先立たれた熟年男性たちが、家事ができずに生活に困窮するなんて社会問題も聞くが、一味はその点、リタイアした爺たちの日常を料理によって充実したものへと変えていく。めっちゃリアルに社会貢献……!
また、かつては料理下手だった妻・虹子が、巻が進むほどに料理上手になったのは、どんなに手際が悪かろうと、アイデア重視の彼女の料理が変わったものであろうと、一味が「うまい!!」、「お前は料理の才能があるっ!」と全力で肯定してきたことが大きい。
『クッキングパパ』にあるのは、「男も家事・育児を負担せねばならない」という義務感ではなく、男だって誰だって家事や育児を楽しむことができる、というシンプルで前向きな提案だ。
長く読んでいるファンにはおなじみだろうが、コミックスには作者・うえやまとちの「料理って楽しいんですよーっ!」という朗らかすぎるコメントが毎巻寄せられている……30年以上ずっと。その精神を分けてもらうことはきっと、そんなに難しいことではない。そう感じさせるエネルギーが『クッキングパパ』にはある。